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第25話 番外編 檻のなかの娘子

いつもいつも、あの男は翠蓮をからかって楽しんでいる。

『柳姑娘、随分と残酷で不実な女侠ですね』だの、『夜はこれからですよ』だの。思い出すだけで、顔から火が出そうなほど熱くなる。


(今日こそ、一矢報いてやるんだから……!)


中庭の寝椅子に寝そべり、のんびりと書物を眺めている景安の背中を見つけ、翠蓮はにやりと不敵な笑みを浮かべた。


軽功けいこうを使い、足音を完全に消して背後に忍び寄る。

目指すは、あの無駄に広い背中だ。いつも澄ましている景安だが、驚いて飛び起きる無様な慌て顔が見られるに違いない。


「とおっ!」


小さな掛け声とともに、翠蓮はぴょんと跳ね、景安の背中へと勢いよく飛び乗った。首に両腕を回し、しがみつくような形でおぶさる。


「ふふん、どう! 驚いた――」

「…………っ!?」


勝ち誇ろうとした翠蓮の言葉は、景安の短い息の詰まりによって遮られた。

見れば、景安は手に持っていた書物を、あからさまにぽろりと地面に落としている。そのまま、石像のように完全に硬直してしまった。


「あれ? 景安……?」


驚かすことには成功したようだが、どうにも反応が奇妙だった。

いつなら『おやおや、手荒い夜這いですね』とでも言ってすぐに意地悪く笑うはずの男が、ぴくりとも動かない。


驚かせてやろうと、耳元のすぐ近くから彼の顔を覗き込もうとしてみるが、本当に微動だにしないのだ。

まさか、自分の体が背中へ容赦なく密着していることや、首筋に吹きかける自分の吐息が、彼の脳内に天変地異を起こしているとは、この時の翠蓮は夢にも思っていなかった。


「ねえ、本当にどうしたの? どこか悪――」


声をかけようとして、至近距離にある景安の「耳」に目が留まった。

いつもは白い彼の耳が、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。


(え……?)


その時、密着したお互いの身体を通じて、景安の心臓の音が伝わってきた。

ドクドクと、狂ったような速度で脈打っている。先日、交杯酒を取り交わした時よりも、はるかに激しい高鳴りだった。背中から伝わる彼の体温も、驚くほどに熱い。


いつもは優位に立ってすべてを支配しているはずの男が、今、完全に制御を失っているのだと分かって、ゾクリとした。


「……翠蓮」


掠れた、低い声が景安の喉から漏れる。


「な、何よ」


「今すぐ降りなさい。……でなければ、私は理性を保てる自信がありません」


「へ?」


その声音に含まれた生々しい「男の熱」に触れた瞬間、翠蓮の心臓も遅れて跳ね上がった。ただ驚かせるだけのつもりだったのに、自分がどれほど危険な距離に飛び込んでしまったのかを、遅まきながら理解し始める。


いつもなら、ここで怖気づいて飛び退いていただろう。

だが、目の前にある景安の耳は、今だかつて見たことがないほど真っ赤に染まっている。あの余裕たっぷりな男が、自分のせいで呼吸を乱し、硬直しているのだ。


(――ここで逃げたら、またいつもみたいに笑われて終わりだわ)


翠蓮の胸の内に、小さな、そして無茶な勇気が湧き上がった。

今すぐ逃げ出したいくらい恥ずかしい。心臓の音も、景安に負けないくらい高鳴っている。


けれど翠蓮は、回した腕をほどくどころか、ぎゅっと、さらに力を込めて彼の首に抱きついた。

自分の胸を、景安の広い背中にこれ以上ないほどぴったりと押し付ける。


「っ……!?」


景安の背中が、今度こそ跳ねるようにびくりと震えた。

翠蓮は真っ赤になった顔を、景安のうなじの辺りに押し当てるようにして、消え入りそうな声で呟いた。


「……やだ。降りない」


「翠蓮、自分が何を言って――」


「いつも、あんたばっかりずるいじゃない……! これからは私を置いて、勝手に山に引きこもったりしないでよ。私は……あんたの隣に、ずっといたいんだから……っ」


言ってしまってから、恥ずかしさで頭がどうにかなりそうだった。いつもは強がって「ぐうたら」だの「叩き斬る」だのと言っているのに、これでは完全に泣き言のようではないか。

必死に彼の背中に縋りついていると、前を向いたままの景安から、ぽつりと声が漏れた。


「……本当に、敵いませんね」


そこには、もはやいつもの余裕など、ひとかけらも残っていなかった。


次の瞬間、視界がぐらりと揺れた。

景安が背後に手を回したかと思うと、翠蓮の身体は拒めない力で寝椅子の上へと力任せに引きずり下ろされた。体勢が反転し、気づけば翠蓮は、寝椅子の上に押し倒される形で彼に見下ろされている。


「ひゃあっ!?」


驚く翠蓮の視界を、景安の端正な顔が即座に塞いだ。

見上げる彼の瞳の奥に灯る昏い光は、獣のような獰猛さと、触れたら溶けてしまいそうなほどの熱を孕んでいる。顔はまだ、耳まで真っ赤なままだというのに、その眼差しはあまりにも男のものだった。


「自業自得ですよ、私の可愛い『娘子ニャンズ』」


そう囁いた景安の指先が、翠蓮の顎を優しく、けれど拒絶を許さない強さで上向かせる。

勇気を振り絞った精一杯の反撃だったが、結果として景安の独占欲の檻に完全に捕らわれてしまったのだ。

翠蓮がそのことに気付いても、もう、逃げる道などどこにも残されていなかった。

今作はこれで完結です。

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!


一度は書いてみたかったラブコメ×武侠。

書き進めるうちに、予想を超えて翠蓮は男気マシマシになり、景安は愛が重くなりました。

中盤の展開に苦戦しましたが、なんとか運命を変えられてホッとしています。



ここで、次回作のお知らせです!

9月4日(金)7:00より、新作を投稿します!

毎週 【日・火・金】 の週3回更新です。


『青山の如く、月は冷ややかに 〜偽りの死を得た皇子は氷の少女に救われる〜』


「あなたの死体を偽装するから」

謎の襲撃を受け、死を覚悟した第六皇子の前に現れたのは、圧倒的な強さを誇る美少女。

身分を失い、少年は彼女と「姉弟」として江湖を旅することになるが――。


陰謀と怪奇が渦巻くダーク中華ファンタジー。

ある異能を持つ元皇子の少年と、超合理主義者の美少女が織りなす、一風変わったボーイミーツガール。全3部作のエンタメ活劇です。


まずは【第1部:出会いと共闘編】をお届けします。

よければ遊びに来てください!

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