第22話 夜明けの風
──だが、翠蓮がそれを許すはずがなかった。
離れていこうとする彼の冷たい右手を、翠蓮は左手でがしりと掴み取り、自分の頬へと無理やり押し当てた。
「言ったでしょ……! 死んでも離してあげないって! 寂しく一人で消えようなんて、絶対に許さないんだから……っ!」
涙をボロボロと流しながら、翠蓮は彼の冷え切った瞳を、これ以上ないほど強く、真っ直ぐに睨み据えた。
彼の「冷徹な計算」を、彼女の「烈しい情熱」が真っ向から打ち砕く。
一人で逝こうとする景安の呪われた運命の、その最果てまで、翠蓮は一歩も退かずに寄り添う覚悟だった。
(お父様……二度とこの剣は使うなと言ったけれど……お願い、一度だけ、一度だけ許して──!)
心の中で亡き父に乞い、翠蓮は固く目を閉じる。次の瞬間、彼女の瞳に宿ったのは、運命をも捻じ伏せる苛烈な決意だった。
景安から噴き出す気の暴走により、大地が割れ、天空が引き裂かれんばかりの天変地異が江湖全土を震撼させる。その大嵐の中心で、翠蓮は自らの愛剣を力強く引き抜いた。
景安の手を、決して離さぬよう繋いだまま、彼女は狂い咲く嵐に向かって叫ぶ。
「暴走するっていうなら──その気を全部、私の剣で導いてみせる!」
──キィン、と夜闇に響き渡る、清廉な剣鳴。
「たった一人の命と引き換えにしなきゃ守れないような世界なら、そんなもの、私の剣で叩き壊してやるわ!」
激昂する周囲を、翠蓮の持つ剣の清らかな光が圧倒していく。
柳家が代々受け継いできた家伝の剣技『清流調気剣』。
他人の内功を奪うためでも、敵を無惨に殺傷するためでもない。その本来の真髄とは──「他者の荒ぶる気を清め、受け流し、調和へと導くための導引の剣」だったのだ。
(誰かを犠牲にして成り立つ平和なんて、ただの欺瞞だわ。私の剣は、恨みを晴らすためでも、世界を天秤にかけるためでもない。──理不尽な宿命に泣くすべての人の運命を、この手につなぎ止めるためにあるのよ!)
翠蓮が剣を振るった瞬間、彼女の刃から溢れ出したのは、これまでの刺客たちの禍々しい気とは一線を画す、どこまでも清らかな光の軌跡。
それは、大嵐に毅然と立ち向かう、一本の柳の大木のようだった。
同じ技を使い、全ての内功を使い果たして衰弱していった父の姿が脳裏によぎる。
(絶対に調和してみせる⋯⋯そして必ず、私も景安も生き抜く!)
どんなに激しい嵐が吹き荒れようとも、決して折れることなく、風の流れに身を任せてしなやかに受け流す。
翠蓮の放つ美しくしなやかな剣気が、景安の身体から噴き出す天を衝くような気を、まるで優しく抱擁するように包み込んでいく。
触れるものすべてを破壊するはずの、残酷な「天の理」。
それを、一人の女侠の「情の剣」が、確実に、一本の清流へと調和させていく。
「くっ……!」
景安の脳裏に描かれていた、不確かな封印の術式。その欠けていた最後の欠片を埋めるように、翠蓮の調和の気が、暴走する龍脈の気を彼の肉体の奥深くへと「正しく」導き、縫い留めていく。
──その瞬間、世界の理が、劇的に書き換わった。
景安の肉体から噴き出す、すべてを滅ぼすはずだった終末の禍々しい光。それと、翠蓮の愛剣から放たれた、柳のごとくしなやかで清廉な情の剣気。
二つの相反する強大な力が完全に交わり、融け合った刹那──。
──フッ、と全ての音が消えた。
天地を揺るがしていた轟音も、大地を割らんとしていた地鳴りも、引き潮のように消えていく。世界を恐怖で支配していたあの恐ろしい災いの光は、翠蓮の放った調和の気によって内側から色を鮮やかに変え、まばゆいばかりの翡翠の光波へと反転した。
そしてそれは、凄まじい衝撃波ではなく──翠蓮の頬を優しく撫でる、一筋の清らかな風へと姿を変えたのだ。
──サラサラ、サラサラと、梢を揺らす優しい風が戦場を、そして山の下へと駆け抜けていく。
山肌が瑞々しい緑を取り戻し、先ほどまでの激しい戦いの爪痕が、清らかな大地の気によってみるみる癒やされていく。それは文字通り、世界を呪いから救い上げる「浄化の風」だった。
雲の切れ間から、柔らかな朝の光が差し込み始める。
恐る恐る目を向けると、景安の身体の崩壊は完全に止まっていた。翡翠の光に溶けかけていた彼の四肢は確かな実体を取り戻し、暴走していた天脈の力は、翠蓮の剣に導かれるようにして彼の体内の奥深く、最も正しい場所へと静かに凪いで収まっていく。
「……はぁ、はぁ……っ」
翠蓮は剣を杖代わりに地面に突き、激しく肩で息をした。全身の疲労は限界に達していたが、繋いだ手だけは、今も変わらずギチギチと音を立てるほど強く握りしめたままだ。絶対に離してなるものか、という意地だけが彼女を支えていた。
やがて、景安がゆっくりと目を開けた。
目の前には、ボロボロになりながらも、勝ち誇ったように涙目で笑う翠蓮の姿がある。
景安はフッと、心の底から脱力したような、降参の笑みをその美しい唇に浮かべた。
「……全く。世界を滅ぼすはずの災いを、ただの心地よい夜明けの風に変えてしまうなんて。……どこまで理不尽な男気ですか、柳姑娘」
「ふん……見たことか、引きこもり。……私の、勝ちよ」
そう言って、翠蓮は満足そうにパチリと目を閉じた。
勝利を確信した瞬間、ピンと張り詰めていた緊張の糸が完全に切れ、身体から一切の力が抜けていく。視界がぐらりと傾き、彼女は景安の胸の中へと真っ直ぐ倒れ込んだ。
──ドクン、ドクンと、力強く脈打つ温かい鼓動。
景安は今度はもう、名残惜しそうに手を離そうとはしなかった。
「私の負けです」
彼は愛おしげに、翠蓮の身体を壊さないような優しい力加減で、けれど二度と離さないという確かな意思を込めて、しっかりと腕の中に抱きとめてくれた。
衣服越しに伝わる彼のぬくもりが、世界で一番心地いい。
新しい光に満ちた世界の中で、長い、そして誰にも邪魔できない二人暮らしが、再び静かに幕を開けようとしている。それを肌で感じながら、翠蓮は深い安心感に身を委ね、心地よい眠りへと落ちていった。
◇
──それから、どれほどの月日が流れただろう。
予言の呪縛を完全に打ち破った景安は、かつての「生け贄」ではなく、ただ一人の「強い男」として、自由に外の世界を歩めるようになっていた。
目の前には、どこまでも続く広い街道と、抜けるような青空が広がっている。
翠蓮は、懐に仕舞った一通の手紙にそっと触れた。
霊山に残った陸光から、つい数日前に届いた便りだ。手紙には、あの戦いのあと新体制となった清風門の様子や、魔教の残党を掃討し江湖に訪れた一時の平穏、そして「二人っきりの旅路の邪魔はしないよ」という、彼らしい茶目っ気溢れる言葉が綴られていた。
翠蓮はふっと微笑むと、隣を歩く白衣の男を振り返った。
相変わらず気怠げに、けれどその瞳に確かな未来の光を宿した剣仙が、彼女のすぐ隣にいる。
「さあ、行くわよ景安! ぼさぼさしてたら置いてっちゃうんだから!」
「やれやれ……。少しはのんびり旅をさせてください、柳姑娘。私は日当たりのいい昼寝場所さえあれば、それで満足なのですが」
「駄目よ、まずは柳家の家名再興が先! あんたの昼寝場所は、そのついでに探してあげるわ! ……というか、前みたいにたっぷり寝なくてもいい体質になったんでしょう?」
「寝るのが私の、唯一の趣味ですので」
「本当にこのぐうたらは……」
口元を尖らせて文句を言い合いながらも、翠蓮の胸は満ち足りた熱でいっぱいだった。
かつて引きこもりだった男は、今、自分の足で、彼女と同じ速度で歩いている。
足取りは軽く、繋いだ手は離れない。
江湖の悪党どもを文字通り蹴散らしながら、二人はどこまでも続く新しい旅路へと、力強く歩みを進めるのであった。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!本編はこれで完結です。
読んでくださる皆様の存在が、本当に励みになりました!感謝の気持ちでいっぱいです。
明日から3日間は番外編を投稿します。
二人の「その後」の話で、24話・25話はかなり糖度高め。興味があれば覗いてみてください!




