第21話 境界線を越えて
庵を飛び出した翠蓮を阻むように、新たな敵の勢力がすぐ側まで迫っていた。
「邪魔よ、そこを退きなさいーーーッ!」
翠蓮の怒号とともに、凄まじい剣風が吹き荒れる。
涙を怒りに変えた彼女の剣は、まさに死に物狂いだった。押し寄せる刺客たちの刃を紙一重でかわし、肉を斬らせて骨を断つ凄絶な交戦。
父から受け継いだ柳家の剣技が、夜闇の中で烈しく唸りをあげる。
今の自分は、一振りの研ぎ澄まされた剣そのものだ──その自覚があった。泥にまみれ、血を流しながらも、がむしゃらに剣を振るう。
(絶対に負けない……! あいつを、あんな場所で一人で死なせてたまるもんですか……ッ!)
自らを燃やし尽くすような勢いで、押し寄せる敵の群れを斬り伏せていく。
だが、どれだけ薙ぎ倒しても、闇の奥から次々と新たな刃が躍り出てくる。肺が灼けるように熱く、視界が血と汗で霞んでいく。
限界はとっくに超えていた。一瞬、足元が大きくもつれる。
──そこを、敵が見逃すはずもなかった。
翠蓮の背後、完全に死角となった闇から、一人の刺客が勝ち誇ったように容赦なき凶刃を振り下ろした。
──防ぎきれな──
翠蓮が奥歯を噛み締めた、その刹那だった。
──キィィンッ!!
凍てつくような甲高い金属音が、夜の戦場に響き渡った。
驚くべきことに、彼女の首筋に届く寸前だった刺客の刃が、まるで目に見えぬ「頑強な気の壁」に阻まれたかのように、烈しく火花を散らして弾かれたのだ。
「な、に……っ!?」
刺客が驚愕の声を漏らす。翠蓮が咄嗟に目をやったその先──月明かりを背負い、夜風に白衣をたなびかせながら、景安が音もなく地上へと舞い降りてきた。
息を呑む。
その佇まいは、いつも庵の縁側で寝そべっている怠惰な男とは、完全に別人のそれだった。
溢れ出る圧倒的な威圧感。一切の濁りがない水鏡のごとき瞳に射すくめられると、周囲の大気さえも、彼の呼吸一つでシーンと静まり返っていくかのようだった。
「……下がっていなさい、柳姑娘。これ以上、私の前で泥にまみれるのは見たくありません」
景安は静かに右手を差し出した。彼の腰に剣の鞘はない。
しかし、彼がそっと指を曲げ、虚空を強く握りしめた、次の瞬間だった。
──ゴオォォォッ!!!
山脈の底から響くような、凄まじい地鳴りが大地を揺らした。
景安の全身から、以前、町で感じたものとは比較にならないほど膨大な気が溢れ出す。
その白く清らかな気は、文字通り彼の右手に「実体化」していく。大地の底から吸い上げられた光の粒子は、やがて一本の、眩い光を放つ美しい長剣を形作った。
鉄の刃ではない。この世界の気そのものを極限まで圧縮し、研ぎ澄ました、実体のない神剣。
その光の剣が放つ凄まじい密度の剣圧だけで、周囲の巨木が一瞬でなぎ倒され、押し寄せていた刺客たちは恐怖に身体を硬直させて一歩も動けなくなっている。
景安は、その光の剣を無造作に、ただ一閃した。
──轟!!
技を放つ、という次元ではなかった。彼が剣を振るった軌跡に沿って、巨大な光の濁流が戦場を横一文字に駆け抜けた。空間そのものを一瞬で斬り裂くような、神域の殺陣。
悲鳴をあげる暇さえ与えられない。圧倒的な純度の気の前に、邪派の凄腕たちも、私欲に狂った達人たちも、一瞬にして内功を霧散され、木の葉のように遙か彼方へと吹き飛ばされていった。
ほんの一呼吸。それだけの時間で、あれほど翠蓮を苦しめていた包囲網は、影も形もなく一瞬で屠られていた。
嵐が去ったような静寂の中、景安が指の力を抜くと、光の剣はサラサラと翡翠色の粒子に還り、大気へと溶けて消えていく。
景安はただ一人、返り血を一滴も浴びず、呼吸一つ乱さずに佇んでいた。
そのあまりにも超然とした横顔を、翠蓮はただ言葉を失って見つめるしかなかった。
──けれど、その孤独な美しさが、今の翠蓮にはどうしようもなく切なかった。
「……本当に、あなたという人は、どこまでも理不尽で……強欲だ」
こちらを振り返った景安は、どこか諦念の混ざった、けれど愛おしげな笑みを唇に浮かべている。
その瞳の奥には、かつてないほど色鮮やかな、烈しい「情」の炎が灯っていた。
翠蓮は張り詰めていた糸が切れたように、その場に崩れ落ちそうになる。
息は荒く、衣服は破れ、白い肌のあちこちには痛々しい切り傷から血がにじんでいる。文字通り、満身創痍だった。
景安は彼女の元へ歩み寄ると、傷ついた身体へ向けてそっと掌をかざした。
──じわり、と温かい木漏れ日のような気が、翠蓮を包み込む。
天脈の気が染み渡るにつれ、疼いていた痛みが嘘のように引き、みるみるうちに傷口が塞がっていく。身体の芯から気力が満ちていく不思議な感覚に、翠蓮は潤んだ目で彼を見上げた。
「景安…………」
その声を耳にしても、景安は何も語らなかった。
いつものため息も、意地悪な皮肉も、彼の口からは一切出てこない。
ただ、その整った顔には、言葉にならないほどの深い苦悩と切なさが滲んでいた。
役目を放棄して世界の理を裏切り、彼女を自分の呪いに巻き込んでしまうことへの、拭いきれない罪悪感。
──けれど、その瞳に宿る光だけは、もう一分も揺らいではいなかった。
景安は、大きな、温かい手で、翠蓮の泥にまみれた手をそっと、けれど二度と離さないと言わんばかりの強さで、迷いなく握りしめた。
絡み合う指先から、彼の無言の決意と、内に秘めた烈しい情熱が、言葉よりも確かに翠蓮の心へと流れ込んでいく。
「後悔しないでよ」
翠蓮はただ一言、隣に並ぶ男へそう告げた。
二人は固く、強く手を繋いだまま、あえて自らの足で歩みを進める。
◇
敵を退けながら、山を降り、町を横切る。
これまで景安を守り続けていた、山裾の結界──その境界線を、今、踏み越える。
──結界の外へ踏み出した、その刹那だった。
「っ、あ……!?」
突如として、景安の身体から、天を衝くような禍々しい気の奔流が爆発的に噴き出した。周囲の夜気が狂ったように吹き荒れ、大気が悲鳴をあげる。
それは、あまりにも美しく、残酷な光景だった。
厳冬を耐え抜いた氷雪が、春の訪れとともに形を失い、水へと溶けていくかのように──景安の四肢から、確かな実体が翡翠色の光の粒子となって剥がれ落ち、虚空へと消え始めたのだ。
「景安……っ! 身体が……!」
怯える翠蓮の手を握り返しながらも、景安の視界は、限界を迎えて白く染まりかけているようだった。彼の確かな体温が、みるみるうちに冷たく引いていく。
だが、彼はただの生け贄ではない。天下を揺るがす稀代の天才「清虚剣仙」だ。
景安の瞳が、激痛に歪みながらも、一瞬だけゾッとするほど鋭く光る。その水鏡の奥で無数の数式が繰り返されているかのように、彼の気配が引き締まっていく。
彼が何をしようとしているのか、正確な術式までは分からない。けれど翠蓮には直感で分かった。この男は今、暴走する巨大な気を、誰の巻き添えにもしないために、己の肉体ごと内側に縫い付け、完全に封印しようとしているのだと。
一歩間違えれば、己の魂ごと完全に消滅しかねない、不確かな賭け。それを、彼はこの期に及んで、また一人で実行に移そうとしていた。
(……またよ。また一人で全部カタをつけようとしてる……!)
景安は、自由の利かなくなりつつある右手をそっと伸ばし、翠蓮の涙に濡れた頬へ優しく添えた。その手のひらは、まるで春の雪のようにひどく冷たくなっている。
「巻き込んでしまって……悪かった、翠蓮」
はじめて耳にする、彼の本心の謝罪だった。
景安はそっと、親指の腹で彼女の目の縁から溢れる涙を拭った。そして、これが永遠の別れになるかもしれないと、名残惜しさを滲ませながら──静かに、その手を離そうとした。




