第20話 犠牲の上に成り立つ世界
──ズゥゥゥン……!
「っ……!?」
庵を目指して山道を狂ったように駆け上がっていた翠蓮は、足元から突き上げてきた不穏な地鳴りに思わず息を詰まらせた。
嵐の雷鳴ではない。これは、濃密な気が激突し、爆発した音だ。
まだ距離があるはずの山道にまで、肌をチクチクと刺すような強烈な内功の余波が押し寄せてくる。
「景安……!!」
嫌な予感に心臓を抉られる思いで、翠蓮はさらに足に力を込めた。激しい雨水を弾き、泥を跳ね飛ばし、呼吸を乱しながらようやく庵の敷地へと滑り込む。
しかし、彼女が門をくぐったその瞬間──。
──轟ッ!!!
先ほどとは比べものにならない、凄まじい衝撃波が爆発した。
大地そのものが激しく鳴動し、庵を丸ごと吹き飛ばしかねないほどの凄絶な風圧。思わず腕で顔を覆い、目を開けることすらままならない。翠蓮は胸騒ぎどころではない恐怖に突き動かされ、竹林の脇をすり抜け、裏庭へと飛び出した。
「景安っ……!」
叫びながら翠蓮は──その場で、完全に息を呑んだ。
そこに広がっていたのは、まさに死屍累々《ししるいるい》の地獄絵図。
激しい雨に洗われながらも立ち込める、濃厚な血の臭い。つい先ほどまで刃を向けていただろう魔教の刺客たちが、物言わぬ肉塊と化して無残に転がっている。
驚愕に目を見開く翠蓮の前で、景安はただ一人、敵の返り血を一滴も浴びぬまま静かに佇んでいた。
いつもの気怠げな雰囲気は微塵もない。彼は転がる骸たちへ向けて、そっと白い掌をかざした。
──サラサラと、何かが解けるような音が響く。
驚くべきことに、無惨な死体や流れた血が、淡い翡翠色の光の粒子となって次々と空中へ溶け出していったのだ。息を呑むほど美しく、そして背筋が凍るほど幻想的な光景。衣服も武器も、すべてが清らかな大地の気へと同化し、跡形もなく土へと還っていく。
「な……何が起こったのよ、これ……っ?」
震える声で尋ねる翠蓮に、景安はゆっくりと掌を下ろした。少しだけ乱れていた呼吸を完璧に殺し、いつもの仮面を張り直して、酷く冷ややかな声音で告げる。
「私は『天脈の器』──この大地の龍脈の力を引き受け、世界の均衡を保つための生け贄です」
短く、けれどあまりにも残酷な真実。
隙を突いて押し寄せる刺客たちと、それを退けるたびに内側から激しく摩耗し、目に見えて弱まっていく結界。そして──。
「天脈の力を引き出せば引き出すほど、等価交換として、私の寿命の灯火も確実に縮まっていきます」
景安はまるで、明日の天気の話でもするかのように淡々と説明していく。
「敵の狙いは、私をここから引きずり出して暴走させ、江湖を白紙に戻すこと。ならば、私がこの庵で刺客をすべて迎え撃ち、誰にも力を渡さずに静かに死に果てる──それこそが、最も現実的で、被害の少ない解決法です」
「な……に言ってるのよ、あんた……」
翠蓮の頭の中が、真っ白に染まっていく。
目の前にいる男は今、自身の死を当然のものとして受け入れている。どうしてそんなに涼しい顔をしていられるのだろうか。
「柳姑娘。私たちの奇妙な居候生活も、どうやらこれまでのようです」
景安は翠蓮の方を振り返り、その水鏡のような瞳で彼女をまっすぐに見つめた。いつものからかい混じりの光はない。あるのは徹底的な、冷徹なまでの「諦め」だけだった。
「元よりここは、あなたの居るべき場所ではない。……さあ、ここを去り、あなたの悲願である柳家の家名を再興しなさい。今来た道を引き返せば、魔教には出くわしません。⋯⋯もう私に、不格好な料理を作っている暇などないでしょう」
早く行けと、そう言わんばかりに、彼はふいと冷たく背を向けた。
景安のそのあまりにも孤独で、あまりにも頑なな背中を見つめる翠蓮。彼女の拳は、怒りと、悔しさと、張り裂けそうな悲しみで、白くなるほどに強く握りしめられていた。
(そんな犠牲の上に成り立つ平和なんて、クソ喰らえよ。景安がここでひっそりと死んで、見て見ぬふりをした私だけが生き残って、一体何が柳家の家名再興だっていうの? そんな汚いやり方で手に入れた栄誉なんて、お父様が喜ぶはずもないわ。……なにより、私は──私は、こいつのそばにいたい!)
翠蓮の胸の内で、まっすぐな信念が爆発する。
「まだやれることがあるはずよ! あなた一人を置いていくなんてできない。私の手を取って……!」
「できません」
景安は背を向けたまま、氷のように冷たく言い放つ。
「私はそういう星のもとに生まれ、その宿命を受け入れています。世界を危険に晒してまで、あなたのわがままを試す価値など、どこにもない」
徹底的な拒絶。だが、その頑なさが、翠蓮の導火線に火をつけた。
翠蓮はがっと縁側に駆け登ると、容赦なく景安の胸元に掴みかかり、その身体を力任せに揺さぶった。
「意気地なし……! 世界の終わりがなんだって言うのよ! あんたはただ、世界を敵に回してでも、私の手をとる勇気がないだけでしょーーーッ!」
掴みかかられた景安の瞳が、大きく見開かれた。
凍りつくような沈黙が、二人の間に流れる。
激しい雨の音さえ遠のくほどの緊迫感の中、次の瞬間、景安の口から漏れたのは、地を這うように低く、冷酷な声音だった。
「……はあ?」
びくり、と翠蓮の指先が震えた。
いつものぐうたらな男はどこにもいない。そこにいるのは、武林の誰もが平伏する「天脈の器」としての、肌を刺すような凄まじい威圧感を放つ男だった。あまりの気迫に押し潰されそうになる。
しかし、ここで怯む翠蓮ではなかった。大きな目にじんわりと熱い涙を溜めながらも、その視線は真っ向から景安を睨み据え、掴んだ胸元を絶対に離さなかった。
景安はそんな翠蓮の瞳をじっと見つめる。やがて、その水鏡の奥が、どうしようもないほどの激情で烈しく揺らぐのを、翠蓮は間近で捉えた。
「……あなたという人は、本当に正気ですか? 私一人の命と、この世に生きる全ての命を天秤にかけて、私を選べと言うのですか。まったく、どこまで強欲で、どこまで夢見がちなんだ……!」
呆れ果てたように、しかしこれまでになく声を荒らげる景安。
その瞬間、翠蓮の目の縁から、堪えきれなくなった涙がポロポロとこぼれ落ちた。
(景安の犠牲の上に成り立つ平和な世界なんて、そんな場所で生き延びるのなんて絶対に嫌だ。例え定められた運命が変えられないのだとしても、私は、全力で抗ってみせる)
翠蓮は彼の胸元をもう一度強く握りしめると、ドンと彼の胸を突いて自ら離れた。
「私は、私にできることをするから!」
涙を拭うこともせず、翠蓮は景安に背を向けると、弾かれたようにその場から走り去っていった。
「柳姑娘……っ!」
背後から、景安の切羽詰まった声が追いかけてくる。
いつの間にか雨は止んでいた。
走りながら一度だけ振り返ると、景安は翠蓮に向かって手を伸ばし、今すぐ追いかけてきそうなほどに烈しい衝動をその顔に浮かべていた。
──けれど、彼はどうしても、その場から一歩も動くことができない。
弱まりゆく結界を維持するためか、まるで目に見えない重い鎖が彼の足を冷酷に大地へと縛り付けているかのように、彼はただ、虚しく冷たい夜気の中に立ち尽くしている。
遠ざかっていく彼の姿が、涙で歪んでまともに見えなくなる。
翠蓮は声を上げてしゃくりあげそうになるのを必死に堪えながら、ただ暗闇の広がる山道へと、がむしゃらに足を進めるしかなかった。




