第19話 運命ごと、背負いきる
三日後の夜、霊山は激しい嵐に見舞われていた。
雨音が庵の屋根を激しく叩きつける中、景安が奥の部屋で深い瞑想に入っている最中のことだった。
「翠蓮姉さん……!」
部屋の扉が乱暴に開き、陸光が飛び込んできた。
その顔にいつもの笑みはなく、青ざめ、肩を激しく震わせている。
「陸光……? どうしたの、そんなに血相を変えて」
陸光の瞳には、底知れない焦燥と恐怖が滲んでいた。
「……亡くなった僕の師匠はね、ずっと兄さんを我が子のように気にかけていた。だから僕も、誰より近くで兄さんを見てきたんだ。兄さんは自分の残酷な運命を恨みもせず、ただ一人で死ぬ覚悟を決めていた。それがずっと、痛ましくて、心配で……」
陸光はきゅっと拳を握りしめ、すがるように翠蓮を見つめる。
「でも、翠蓮姉さんが来てから兄さんは変わった。少しずつ『生きる喜び』を取り戻してくれたんだ。だから僕、本当に嬉しかった。二人には幸せになってほしいんだ。……だから、兄さんを裏切ってでも話す!」
一気にまくしたてた陸光は、震える息を吐き、核心を告げた。
「兄さんを守る結界……もう、限界なんだよ」
「……え?」
「何百年も前の古の結界を、清風門が代々内功で補強してきただけ。基礎はもうボロボロなんだ。歴代の『器』の時代に比べたら、今の結界なんて春先の薄氷みたいに脆い。いつ壊れてもおかしくないんだよ!」
「薄氷……? 嘘でしょ、そんなの──」
じっとしていられるはずがなかった。翠蓮は勢いよく立ち上がった。
「今すぐ、私たちができる補強をやらなきゃ……!」
庵の外へ駆け出そうとした翠蓮の肩を、陸光が慌てて掴んで引き留める。
「待って、翠蓮姉さん! 落ち着いて! 庵の古い法具や僕たちの内功じゃ、もうどうにもならないんだ。小手先の誤魔化しが効く段階は、とっくに過ぎてる!」
「じゃあ、ただ指をくわえて見てろって言うの!?」
「違う! だからこそ、清風門の本山に行くんだ!」
陸光の必死の叫びに、翠蓮はハッと目を見開いた。
「僕が探せる範囲には手がかりが見つからなくて⋯⋯。でも本山の地下書庫や宝物殿なら、大結界を根底から修復する術や、兄さんの暴走を抑える秘薬の記述があるかもしれない。だけど、あそこは僕みたいな若輩や、部外者の姉さんが簡単に立ち入っていい場所じゃ──」
「許可を待ってる暇なんてないわよ」
陸光の言葉を遮り、翠蓮は冷たくなった両掌をぎゅっと握りしめた。深く息を吐き出すと、瞳から動揺が消え、鋭く不敵な炎が戻ってくる。
「行くわよ、陸光。案内しなさい」
「えっ……!? で、でも景安兄さんには……」
「あいつには大人しく寝てろって言い置いていくわ。何としてでも、そこからあいつを救う手段を引っ張り出してやる。……文句があるなら、あいつを治してからいくらでも聞いてやろうじゃないの!」
景安の残酷な宿命を知ってもなお、翠蓮の心は折れなかった。彼を救うという確かな意志を胸に、自ら清風門の本山へと足を踏み出すことを決意した。
◇
清風門の門弟たちが身に纏うのは、一糸乱れぬ薄青の衣。
広大な館の中で、自分の着ている鮮やかな紅の衣だけが、まるで血の跡のようにひどく場違いで、翠蓮はそわそわと落ち着かない心地でいた。
「どうしても地下書庫に入りたいんです」
「許可できない」
何度頼んでも、門弟たちは表情一つ変えず、冷淡な押し問答を繰り返すばかり。
「少しここで待っていて」と、陸光が上層部へ掛け合いに彼女のもとを離れて間もなくのことだった。
案内された奥の広間で、翠蓮は清風門の長老たちから突然の呼び出しを受ける。
薄暗い広間の中、冷徹な眼差しで見下ろす老人たちの威圧感が、部屋の空気を重く支配していた。
「――南州柳家の娘だそうだな」
居並ぶ長老の一人が、低く冷ややかな声を響かせる。
「かつてお前の門派が犯した罪は、江湖の誰もが知っている。お前たちの秘技『調気剣』は災いを引き起こし、今また、我らが清風門が守護する『天脈の器』を今だかつてない危険にさらした。お前が面白半分に連れ出したせいで結界が致命的に弱まり、魔教を呼び寄せる結果となったのだ!」
「……っ、私が連れ出したから、結界が……!?」
衝撃の事実に翠蓮の顔から血の気が引く。しかし、長老たちの身勝手な糾弾は止まらない。
「天脈の器とは、天の大気を繋ぎ止める生け贄の柱。もしあやつが外に出て力が暴走すれば、この江湖はすべて無に帰す。世の理を保つことが、白景安という男に課せられた役目なのだ」
「かつて、そなたのお父上は己の過ちを悟り、自らの内功を使い切って事態を収める賢明さを持っていた。だがその娘は、己の無知が世界を滅ぼす引き金になったことを、理解しておるのか?」
突きつけられた、残酷な世界の真実。
景安が背負っていた、世界を巻き込む呪いの全貌。
「…………っ」
あまりの衝撃に、翠蓮は足元から崩れ落ちそうになる。
私が彼を連れ出した。あの日、彼の手を引いて境界線を越えたその瞬間から、残酷な宿命の歯車が回り始めてしまったのかもしれない。私の無知のせいで、彼の平穏を壊してしまったのだとしたら──。
ズキズキと激しく痛む胸を、翠蓮は自身の拳で強く押さえた。
──いや、落ち込んで立ち止まっている暇なんて、一秒だって無い。
女侠としての冷静な思考が、長老たちの傲慢な目の奥にある「欺瞞」をも同時に見抜いていた。
結界が敷かれたのは何百年も昔のことだ。とっくに始まっていた綻びを無視し、自分たちの管理不足を「柳家の悪名」と「翠蓮の連れ出し」のせいに擦り付けようとしている老人たち。何より彼らは、景安を都合のいい「生け贄」として、あの狭い檻に永遠に縛り付けようとしている。
どのみち、このまま庵に閉じ込めておけば結界はいずれ寿命を迎え、彼は消費されるだけだったのだ。だったら、歯車が回りだしたことを恐れて何になる。
(私が彼を外へ連れ出した。そのせいで運命が動き出したというなら……私が最後まで、あいつの命の責任を背負う。死ぬ運命だっていうなら、その運命の方をねじ伏せてみせる!)
罪悪感を、一瞬で真っ直ぐな「覚悟」へと燃え上がらせる。翠蓮は黙って踵を返した。
「待て、柳家の娘! まだ話は終わって――」
「……私の無知が引き金になったというのなら、それは謝ります」
翠蓮は足を止め、静かで苛烈な声を響かせた。
「けれど──あいつを、あなたたちの都合のいい生け贄のまま死なせたりはしない!」
毅然と言い放ち、長老たちを真っ向から睨み据える。
「あいつを俗世に引き戻したのは、私。あいつに生きる喜びを教えてしまったのも、私……すべて私が始めたことです。だったら、私が最後まであいつの側にいて、その呪われた運命ごと、この命で背負いきってみせます!」
背後から浴びせられる老人たちの狼狽した声を、置き去りにして、翠蓮は広間を飛び出した。
◇
廊下に出ると、正面から息を切らした陸光がやってくる。その瞬間、庵の方角からぞっとするような嫌な気配が立ちのぼり、山を揺らした。
「陸光、この気配……!」
「やっと書庫の許可が降りたんだ、僕だけなら入ってもいいって! 急いで調べるから、翠蓮姉さんは兄さんの元へ……!」
「わかったわ! 頼むわよ、陸光!」
翠蓮は激しい雨のなか、ぬかるむ山道を一筋の紅の光となって駆け抜けていく。
(景安、どうか私の手をとって──!)
胸の奥で必死に祈りながら、彼女はただひたすらに、愛する男の待つ庵へと向かって走り出すのだった。




