第18話 嵐の前触れ、愛おしき日々
翠蓮が「天脈の器」という彼の本当の正体を知ってからも、庵の雰囲気は変わらず穏やかなままだった。
景安自身は、自分の秘密が彼女に知られているとは気づいていないようだ。相変わらず縁側でぐうたらと寝転び、翠蓮が差し出すお茶を手にして気怠そうに目を細めている。
そんな彼の姿を見るたび、翠蓮の胸の奥には、以前とは違う切なさと愛おしさが静かに募っていくのだった。
そんな、どこまでも平穏な日々が、いつまでも続くかと思われたある日のこと。
「景安兄さん、少しいいかな」
母屋の奥から、陸光がいつになく低い声で景安に声をかけた。
その瞬間、それまで庵を包んでいた温かい空気が、一変した。
普段は人懐っこい陸光が、珍しくその顔から笑みを消し、真剣な表情で低く景安に何かを告げている。
距離があるため、二人の会話の内容までは聞き取れない。けれど、景安は驚きもせず、ただ静かに視線を落として陸光の必死な訴えを聞いていた。
陸光が何かを提案するように熱弁し、それを景安が遮るようにきっぱりと拒絶する。その時の景安の横顔は、いつもの飄々とした雰囲気とは似ても似つかない、冷徹で、どこか孤独な決意を秘めた「天脈の器」としての顔だった。
(……なんなの、一体。何を話してるの……?)
翠蓮が胸をざわつかせていると、話を終えた景安がゆっくりと庭の彼女の方へと歩いてきた。
「柳姑娘」
「なによ」
翠蓮は動揺を隠すため、いつも通り素っ気ない口調で返した。だが、その言葉の端々には柔らかな親愛が滲んでしまう。
その瞬間、景安の顔がかすかに歪んだ。いつもの彼らしくなく、迷うような表情を浮かべている。
景安は一つ息を吐くと、いつもの飄々とした態度に戻り、淡々と言葉を発した。
「いえ。柳姑娘の剣を見るに、まだまだ私に勝てそうもありませんが……あなたはいつまで、この庵に居座るつもりですか?」
「──っ」
翠蓮の顔から、一瞬で色が失われた。
胸の奥を鋭い刃で突き刺されたような、深く傷ついた感覚が押し寄せる。
今までも「諦めて山を降りろ」とは言われてきたが、それはいつも翠蓮が突っぱねられる種類のものだった。
だが、今の言葉には、はっきりとした拒絶の色を帯びている。まさか急に、こんな風に突き放されるなんて思いもしなかった。
「……それって、今すぐここから出て行ってほしい、ってこと?」
必死に取り繕おうとしたが、自分の口から飛び出た言葉は震えていた。喉がキュッと狭まり、視界がじわりと滲みそうになる。
すると景安がハッと目を見開いた。そして、驚くほどの勢いで、食い気味に否定してきたのだ。
「そうではありません……っ!」
あまりの語気の強さに、翠蓮は瞳を潤ませたままパチクリと瞬きをした。あの冷静沈着な景安が、見たこともないほど慌てている。
彼は視線を激しく彷徨わせながら、必死に言葉を重ねてきた。
「だ、大体……あなたが私に勝てるようになるまで待っていたら、それこそお互い、白髪の老人になってしまいますよ」
「え……?」
言い終えた瞬間、景安がハッと息を呑んで固まった。そして、みるみるうちに彼の耳の付け根から頬にかけて、カッと真っ赤に染まっていく。
──白髪になるまで、共に老いる。
それはまるで、生涯を共にする夫婦が交わすような、誓いの言葉ではないか。
「……夫婦でもないのに、私は何を馬鹿なことを……」
後半はほとんど聞き取れないほどの小声でゴニョゴニョと呟きながら、景安は完全に自爆した様子でウロウロと視線を泳がせている。
突然の突飛な言葉と、目の前で真っ赤になって取り乱している「元・仙人」の姿に、翠蓮はぽかんと呆気にとられていた。
──けれど、彼のその必死さと、耳まで真っ赤にしている初心な姿を見た瞬間、翠蓮の胸の奥に、ふわっと、何とも面映ゆい、愛おしげな感情が湧き上がってきた。
さっきまでの泣き顔を隠すように、翠蓮はわざと意地悪く口角を上げる。
「……ふん。それも、悪くないかもね」
そう言って、顔を隠すようにパッと身を翻すと、弾かれたようにそのまま厨房へと駆け出した。
背後には、しばらくの間、呆然としたまま立ち尽くしている景安の気配が残されている。
厨房に飛び込んだ翠蓮の胸は、今までにないほど狂おしい喜びで弾んでいた。
──けれど、彼女はまだ知らなかった。
景安が先ほど陸光と交わしていた、魔教の不穏な知らせを。
そして、翠蓮を愛してしまったがゆえに、「彼女を死の運命に巻き込みたくない」という悲哀と、「それでも手放したくない」という狂おしいほどの独占欲が、景安の胸の奥で激しくせめぎ合っていることを。




