第17話 孤独な龍の、剣になる
呆然とする翠蓮の前で、陸光はさらに言葉を紡いでいく。
「それにね、天脈の器は……絶対に、負けることが許されないんだ」
「負けちゃ、いけない……?」
「もし兄さんが敗北して命を落としたり、あるいはその身を奪われたりしたら、この世界の龍脈の均衡がすべて崩壊する。だから兄さんは、物心がつく前の幼い頃から、過酷な鍛錬を重ねてきたんだよ。絶対に負けることがないようにね」
規格外の強さ。そして、他者を寄せ付けないあの泰然自若とした態度と、容赦のない毒舌。すべては、他人が気安く近づいて傷つかないよう、そして自らの過酷な宿命に心を殺すために身につけた、防壁だったのだろうか。
事実、清風門の人間は景安を恐れ、遠巻きにしているようだ。
(……あ。あのときの)
陸光の言葉を聴きながら、翠蓮の脳裏に、いつか庵の裏手で見かけた光景が蘇った。
竹林の奥深くに佇んでいた、不自然に深く抉れた一本の大樹。そこに刻まれていた凄絶な打突の痕跡。
あれは、誰にも負けることを許されなかった少年が、孤独と重圧の中で、ただひたすらに振るい続けた剣の軌跡だったのだ。
誰も入れない神域の中で、彼はどれほどの血を流し、心を削ってあの強さを手に入れたのだろう。
「でも、兄さんはただの人形じゃなかった」
陸光はどこか誇らしげに、けれど切なげに口元を歪めた。
「数年前、僕たちの師匠が亡くなった時……景安兄さんは、その死の真相を巡って清風門の長老たちと真っ向から対立したんだ。長老たちは門派の利益のために真実を伏せようとしたけれど、兄さんは自分の信念を絶対に曲げなかった。それ以来だよ。兄さんが清風門の山門に一切足を踏み入れず、あの庵に引きこもるようになったのは」
「そんなことが、あったのね……」
「⋯⋯僕が清風門に来たのは5歳の頃なんだ。しばらくは泣いてばかりいたんだけど、兄さんはただ横にいてくれた」
「表情はいつものような気怠げな顔だったけどね!」と陸光は笑う。
翠蓮も、いつかの夏の夜を思い出していた。柳家再興と、自らが掲げる正義について話した夜。景安は何も言わず、ただともに焚き火を囲み、耳を傾けてくれた。
「あいつは受け入れるだけの器がある男よね」
「翠蓮姉さんがそれを分かってくれて嬉しいよ」
陸光はにっこりと笑う。
どんなに理不尽な宿命を背負わされても、彼はこの世を恨むこともなく、与えられた「誰にも負けない」という役割を完璧に全うするために、生き続けてきた。
それなのに⋯⋯翠蓮は激しい後悔と恐怖に襲われ、その場に崩れ落ちそうになった。
「ごめんなさい……っ。私、景安がそんな身の上だとは知らずに、無理やり外へ引っ張り出して、人目に触れさせてしまったわ……」
自分の軽率な行動が、彼の平穏を脅かしてしまった。もし、自分が町に連れ出さなければ、彼は魔教の刺客に襲われることも、右腕を斬られることもなかったはずだ。
喉の奥をせり上がってくる嫌な疑惑を、翠蓮は震える声で口にする。
「私……彼を結界の外へ、連れ出してしまったのかしら。予言が真実なら──景安は、死ぬの……?」
「そんなことないよ! 翠蓮姉さん、落ち着いて!」
陸光は慌てて彼女の肩を掴み、大声を上げた。
「山の麓の町なら、まだ結界の範囲内だから大丈夫なんだ。過去の天脈の器たちの記録にも、あの町へ行って買い物をしていたっていう記述がちゃんと残ってる。だから、今回のことで死ぬなんてことは絶対にないよ」
陸光は励ますように、いつもの明るい声音でそう言ってみせた。
けれど──間近で見つめる彼の瞳の奥には、拭いきれない心配からくる、微かな翳りがあるのを翠蓮は見逃さなかった。
(嘘じゃない。でも……完全に安全ってわけでもないんだわ)
きっと、結界の境界線ギリギリの場所だったからこそ、魔教の奴らにつけ込まれたのだ。
翠蓮の目元が、じわりと熱くなる。熱い涙が、視界を容赦なく滲ませていく。
あの生意気で、意地悪で、けれどどこか優しい引きこもりの男。
世界を救う器だなんて、そんな大層なものはどうでもいい。
ただ、『白景安』という一人の男を、ひとりぼっちにしたくない。
翠蓮は、きゅっと唇を噛み締めて立ち上がった。その瞳には苛烈な炎が宿っている。
(あいつが動けないというのなら、私が側にいたい。いざというときは、あいつの剣になる)
「陸光。山菜を採ったら、すぐに庵へ戻りましょう」
「え? うん、それは構わないけど……翠蓮姉さん?」
「たとえ魔教の奴らが結界を抜けてやってきても、徹底抗戦してやるわ」
熱き女侠の胸に、静かで、しかし絶対に消えない決意の火が灯るのだった。
◇
二人が庵へ戻ってしばらくすると、景安が寝所から出てきた。陸光の心配をよそに、景安はどこか他人事のような顔をしている。
だが、一度剥ぎ取られてしまった「仙人の仮面」は、そう簡単には元に戻らない。
山頂の庵には、これまでとはまったく違う「奇妙な空気」が流れていた。
「……柳姑娘。お茶を」
「あ、うん。……はい、どうぞ」
いつもなら「お茶くらい自分で淹れなさいよ!」と怒鳴り散らしているはずの翠蓮は、借りてきた猫のようにおとなしく、景安に茶杯を差し出していた。
受け取る際、彼の指先が、ほんの少しだけ翠蓮の指に触れる。
「っ……!」
それだけで、翠蓮の全身にピリリと電流が走った。
慌てて手を引くと、景安は目を心持ち細め、どこか意味深な視線を送ってくる。その目はもう、かつてのように何も映さない「凪いだ水鏡」ではない。完全に、一人の女を意識した男の目だった。
(なによ、なによあいつ……! 怪我したくせに、なんであんなに余裕そうなのよ……っ!)
いつもと違う二人の様子に、陸光も怪訝な表情を浮かべている。
「翠蓮姉さん、兄さんのこと一回も見ないようにしてるよね……。あ、もしかして二人、喧嘩でもした?」
「し、してないわよッ!」
真っ赤になって否定する。
(さっきは、私を怖がらせたくなかったから引き下がってくれたのかしら……。でも、そのせいでどう接していいか全然わからないじゃない!)
自分がこんなにビクビクと動揺しているというのに、景安はといえば、陸光のことを「うるさい」と一蹴することもなく、こちらを眺めている。
──けれど、翠蓮が気まずさを紛らわせるように陸光と話し込み、いつものように親しげな態度を取った、その瞬間だった。
縁側からの空気が、ふっと冷たく重くなる。
ちらりと視線をやると、景安の美しい眉がかすかに不機嫌そうにピクリと動いていた。彼は何かを小さく呟いたようだったが、その声は風に消えて二人の耳には届かない。ただ、彼の瞳の奥に、またあの時のような、どろりとした暗い独占欲の火がチリチリと灯ったのを見て、翠蓮は背筋をこわばらせた。
(な、なによ……。なんで陸光と話してるだけで、そんなに怖い目で見るのよ……)
「陸光。早く夕飯の支度をしなさい。お前がいると庭が狭い」
「ええっ!? また僕だけ名指し!?」
案の定始まった、理不尽極まりない追い出し工作。
八つ当たりで文句を言われる陸光を見て、翠蓮はますます居心地悪そうに身を縮めた。
あいつは私がビクビクしているのが気に入らないのだろうか。それなのに陸光といつも通りに接しているのが、そんなに面白くないのだろうか。あの時の無防備な自分を見られてしまった以上、もう彼の前でどう振る舞えばいいのか、翠蓮にはまったく分からなかった。
気まずくて、気恥ずかしくて、けれど互いの存在が頭から離れない。
冷静な剣仙と熱い女侠の距離は、一線を越えない「境界線」の上で、じれったいほどに、しかし確実に、深く絡み合おうとしていた。




