第八話 ほんとうの名
山に分け入って、三日が過ぎた。
人目を避け、二人は街道を捨てて獣道ばかりを歩いた。昼は木立の奥に身をひそめ、日が落ちてからまた歩いた。柊は道々わずかな食べ物を分け、鈴の足の傷をいくども見てくれた。言葉は多くなかった。けれど、その無口な気づかいに、鈴はいつしかこわばりがほどけていくのを感じていた。
家を滅ぼした側の男。そう思おうとするたびに、足を拭ってくれたあの不器用な手を思い出した。
四日目の夕暮れ、二人はようやく目指す場所にたどり着いた。
山ふところの、小さな里だった。数えるほどの家が、棚田の縁にひっそりと身を寄せ合っている。柊が向かったのは、里のいちばん奥、杉木立に隠れるように建つ古い一軒家だった。
柊が戸口で、低く名を告げた。
ややあって、戸が細く開いた。
中から覗いたのは、白髪の痩せた老人だった。落ちくぼんだ目が、まず柊を、それからその後ろの鈴を鋭く射る。警戒の色が深く刻まれていた。長く、人目を恐れて生きてきた者の目だった。
「……柊どのか」しわがれた声が言った。「久しい。だが、なぜ、今ごろ。それに、そちらの娘は」
「玄斎どの」柊は声を落とした。「捜していたものが、見つかったのだ」
老人の眉がわずかに動いた。
柊は鈴を、そっと前へ促した。鈴は震える手で、懐からあの貝細工の櫛を取り出した。
櫛を目にした瞬間、老人の——玄斎の顔色が、変わった。
落ちくぼんだ目が、大きく見開かれる。皺だらけの手が、わなわなと伸びてきた。けれど、櫛に触れる寸前で、その手は止まった。代わりに、玄斎は鈴の顔を食い入るように見つめた。
「その、目もと」声が震えていた。「奥方さまに……瓜ふたつ、じゃ」
玄斎の目から、見る間に涙があふれた。
「生きて……おられたのか。姫さまは……あの夜、お亡くなりになったものと……わしは、ずっと……」
老人は、その場にくずおれるように膝をついた。皺だらけの両手で顔を覆い、声を殺して嗚咽した。
鈴は、どうしていいかわからなかった。
姫さま。奥方さま。——自分に向けられたことのない、その言葉。けれど、目の前の老人の涙は、本物だった。この人は、まことにわたしの家を知っている。わたしの母を知っている。
「お入りなされ」涙をぬぐい、玄斎はようやく言った。「ここなら、ひとまずは安うござる。積もる話も……お聞かせせねばならぬことも、ございます」
囲炉裏の火が、ぱちりと爆ぜた。
玄斎は火のそばに鈴を座らせ、震える声で語りはじめた。御影の家のこと。念読みの血のこと。鈴の父が、いかに情け深い当主であったか。母が、いかに気丈でやさしい人であったか。
鈴はひとことも聞きもらすまいと、耳を傾けた。会ったことのない、けれど確かに自分につながる人々が、玄斎の言葉の中ではじめて生きた姿を結んでいく。
やがて、玄斎はふと口をつぐんだ。そして、潤んだ目でまっすぐに鈴を見た。
「姫さま。ひとつ、おたずね申す。——あなたさまは、ご自分のまことの名を、ご存じか」
鈴は首を横に振った。
物心ついたときには、もう鈴と呼ばれていた。それより前の名など、知るはずもなかった。
玄斎は、そっと目を閉じた。
「お生まれになったとき、わしはその場におりました。当主さまがお抱きになり、奥方さまがお名づけになった。——忘れもいたしませぬ」
老人は、ひとつひとつ噛みしめるように言った。
「あなたさまの、まことのお名は——縁、と申されます」
その瞬間。
鈴の頭の中で、あの雨の夜の記憶が鮮やかによみがえった。
母が最後に、赤子の頬に頬を寄せて囁いた言葉。雨にかき消され、聞き取れなかったあの短い名。
——縁。
母は、あのときわたしの名を呼んでいたのだ。
何度も。何度も。生きて、と祈りながら。縁、縁、と。
鈴の頬を、熱いものが止めどなく伝い落ちた。十五年。名もなく、憑かれた娘と蔑まれて生きてきた。けれど、自分にはちゃんと名があった。母が、命がけで与えてくれた名が。
囲炉裏の火が、その涙をやわらかく照らしていた。
——けれど、玄斎の顔には、まだ語り終えぬ何かが影のように残っていた。
「縁さま」やがて、老人は声をひそめた。「お聞かせせねばならぬことが、まだございます。——御影が滅ぼされた、まことの理由。そして、あの夜ご一族を裏切った者のことを」
囲炉裏の炎が、ゆらりと大きく揺れた。
その名を、玄斎が告げるより先に。
里のずっと下のほうから——幾頭もの馬のいななきが、夜気を裂いて響いてきた。
玄斎の顔が、さっと青ざめた。
「……来たか」




