第九話 ふたたびの炎
「……来たか」
玄斎の呟きは、短かった。
老人は、もう涙をぬぐっていた。さっきまでのくずおれた姿が嘘のように、その動きは素早かった。長い年月、いつ来るともしれぬこの日に備えて生きてきた者の動きだった。
「こちらへ」玄斎は囲炉裏の奥の床板を、ぐいと持ち上げた。下に、暗い穴が口を開けている。「裏の沢へ抜ける、隠し道じゃ。早う」
外で、馬のいななきが近づいてくる。怒号。そして、ばちばちと何かが爆ぜる音。
火だ。
鈴が戸口の隙間から外を見ると、隣の家の屋根からすでに赤い炎が立ちのぼっていた。松明を手にした影がいくつも、闇の中を駆けまわっている。逃げ惑う里の者の悲鳴。
——あの夜と、同じ。
櫛の中で視た、御影の最期。燃える屋敷。逃げ惑う人々。それが今、目の前でそっくりそのままくり返されている。鈴の足がすくんだ。
「縁さま」玄斎が鋭く呼んだ。「行きなされ。早う、穴へ」
そのときだった。戸が、外から蹴破られた。
踏み込んできたのは、抜き身の刀を提げた二人の侍だった。鈴を見つけ、その目がぎらりと光る。
「いたぞ……娘だ!」
柊が、動いた。
鈴を背に庇うや、抜く手も見せず、先頭の侍の刀を横ざまに弾き返す。返す刃でもう一人の籠手を打ち、間合いを割って土間の外へと押し返す。その太刀筋は、これまで鈴が見たどの一瞬よりも鋭く、容赦がなかった。
「玄斎どの、縁を頼む!」柊が外へ踏み出しながら叫んだ。「おれが、ここで食い止める。早く行け!」
「柊さま——」鈴が思わず、その背に手を伸ばした。
「行け!」
柊は、振り返らなかった。炎を背に、迫りくる影の群れへと、ただ一人刀を構えて立ちふさがった。
玄斎が鈴の腕をつかみ、穴の中へと引きずり込んだ。
暗い土の匂いのする道だった。腰をかがめ、玄斎の背について、鈴は夢中で這い進んだ。背後で、刃の打ち合う音と怒号がくぐもって響いている。柊の声は、その中にまだ立っていた。
どれほど進んだろうか。やがて、前方に夜の空が見えた。
抜け出たのは、里の裏手のごつごつとした沢のほとりだった。冷たい水音が、闇に響いている。振り返ると、木立の向こうで里が赤々と燃えていた。
「休んでは、なりませぬ」玄斎が肩で息をしながら言った。「沢を、上へ。岩場を伝えば、馬は来られませぬ」
二人は暗い沢を、よじ登るように遡った。
濡れた岩は滑り、鈴はいくども膝を打った。それでも、止まらなかった。止まれば、死ぬ。柊が命がけで作ってくれたこの時を、無駄にはできない。
岩陰を、ひとつ曲がったときだった。
前方の闇に、ふいに人影が立った。
鈴の心の臓が凍りついた。松明も持たず、ただ静かにそこに立っている。痩せて背の高い、侍だった。月明かりに、その顔の酷薄そうな目もとだけが、白く浮かんでいた。
「氷室……」玄斎が呻くように呟いた。
氷室は、ゆっくりと刀を抜いた。その動きには、怒りも焦りもなかった。獲物を追いつめた狩人の、ただ淡々とした確かさだけがあった。
「御影の、生き残りか」氷室の声は、低く平坦だった。「十五年。よく、隠れていた。だが、ここまでだ」
玄斎が鈴を、背後へ突き飛ばした。
「縁さま、沢を上へ!わしにかまわず——」
氷室の刀が闇を、横一文字に薙いだ。
玄斎の体が、ぐらりと傾いだ。脇腹を押さえた指の間から、黒いものがしたたり落ちる。それでも老人は両腕を広げ、鈴の前に立ちふさがり続けた。
「走れと、申しておる……っ」
鈴は走れなかった。動けなかった。目の前で、また自分のために、人が——
そのとき。背後の岩場を駆け下りてくる足音がした。
「縁!」
柊だった。返り血を浴び、肩で息をしながら刀を提げ、岩を蹴って現れた。氷室が、ちらりとそちらへ目を向ける。
その一瞬の隙に、柊は鈴と玄斎のあいだに割って入り、氷室との間合いを刀で塞いだ。
「……柊数馬」氷室の平坦な声に、はじめてかすかな色がにじんだ。「貴様、城を裏切ったか」
「とうに、裏切っていたさ」柊は低く言い返した。「十五年前から、ずっとな」
二人の刃が、月の光の中でぎらりと向き合った。




