第十話 遺された言葉
刃と刃が、噛み合った。
火花が、闇に散る。柊と氷室の刀が、月明かりの下で幾度も激しく打ち合った。氷室の太刀は、平坦な声と同じく無駄がなく、冷たかった。柊はその一撃ごとを紙一重で受け、いなし、わずかな隙を刃でこじ開けようとする。
互角だった。だが、柊には守るものがあった。
背後で、玄斎が血を流している。鈴が立ちすくんでいる。長くは、戦えない。
柊は賭けに出た。
氷室の刀をあえて深く受け、その勢いを利して、ぐいと相手の懐へ踏み込む。氷室の目が、わずかに見開かれたその刹那。柊の刃が、氷室の刀を持つ腕を斬り裂いた。
氷室が低く呻き、後ろへ跳んだ。
その一瞬を、柊は逃さなかった。
「玄斎どの、つかまれ!」
柊は片腕で玄斎を抱え起こし、もう片方の手で鈴の手を取ると、切り立った岩場へと駆け上がった。傷を負った氷室は、すぐには追ってこられない。
背後から、平坦な声が追いかけてきた。
「逃げられはせぬぞ、柊。——御影の血は、根絶やしにする。たとえ、地の果てまでもな」
その声には相変わらず、怒りも昂りもなかった。ただ、決して翻ることのない冷たい確信だけがあった。鈴の背を、ぞくりと悪寒が走った。
三人は夜の山を、ひたすらに登った。
東の空が白みはじめる頃、ようやく岩肌の窪みに、雨をしのげる岩屋を見つけた。柊は玄斎を、そっと中へ横たえた。
ひと目で、わかった。
玄斎の脇腹の傷は、深すぎた。流れ出た血がすでに、その小袖を黒く重く濡らしている。老いた顔は、紙のように白い。
「玄斎どの」柊が唇を噛んだ。「すまぬ。おれが、もっと早く——」
「よい」玄斎は、かすかに首を振った。「役目を……果たせるなら、この命、惜しくはない」
落ちくぼんだ目が、鈴を捉えた。手招きするように、皺だらけの指がわずかに動く。鈴は、その傍らに膝をついた。
「縁さま……時が、ありませぬ。お聞きくだされ」
玄斎の声は、もう糸のように細かった。それでも、その言葉は一語ずつ、はっきりとしていた。
「あなたさまの力は……御せまする。御影の者は皆、幼き頃に学びました。——よろしいか。念に、飲まれてはなりませぬ。流れ込むものに、身を任せるのではなく……ご自分の、息を。心の臓の音を。それだけを、片時も手放さぬのです」
鈴は食い入るように、その言葉を聞いた。
「ご自分という、錨を……ひとつ、深く下ろす。さすれば、念はあなたさまを通り抜けるだけ。流されはいたしませぬ。そして——ただ受けるのではなく、こちらから、問うのです。何を知りたいか、と。さすれば、念はおのずと、応えまする」
息を、ひとつ。
「それが……御影の、見の極意にございます」
鈴は何度も、うなずいた。涙が頬を伝った。
「そして、もうひとつ」玄斎の目に、ふいに強い光が宿った。「これだけは……お伝えせねば、死にきれませぬ。御影が、なぜ滅ぼされたか。誰が、ご一族を売ったのか」
鈴は息を詰めた。
「あの夜……城の兵を、屋敷へ手引きした者がおりました。門の鍵を開け、家人の寝所まで案内した者が。——それは、よそ者ではござりませぬ」
玄斎の血の気の失せた唇が、震えた。
「御影の、ご重臣。当主さまが誰よりも信を置いておられた、ご家老——黒沢監物。あの男が、御影を裏切ったのでございます」
鈴の頭の中が、真っ白になった。
「黒沢は、御影の力を恐れる城の者と通じ、一族を売って、その褒美に城で高き位を得ました。今や、藩のご家老のひとり。——氷室を放ち、あなたさまを追うておるのも、その黒沢にございます」
身内が。家族が、誰より信じた者が。その手で、すべてを。
「黒沢が、あなたさまをこれほどまでに追うのは……あなたさまが生きておられれば、いつか、その力で……あの夜の真実を読み解いてしまうから。己の裏切りが、露見するのを……恐れておるのです」
玄斎の手が、鈴の手を弱々しく握った。その手は、もうほとんど冷たかった。
「縁さま……どうか、生きて。あなたさまだけが……御影の無念を晴らせる、ただひとり……」
言葉が、そこで途切れた。
握っていた手から、ふっと力が抜けた。
「玄斎どの……?」
老人は、もう答えなかった。安らかな、けれど二度と動かぬ顔で、ただ岩屋の天井を見つめていた。
鈴は、その冷たい手を両手で握りしめた。
また、だ。また、わたしのために人が死んだ。登世婆さまも。父も。母も。そして、玄斎も。鈴のために命を投げ出した人々の顔が、次々と胸を突き上げた。声もなく、涙があふれて止まらなかった。
柊は何も言わず、その肩にそっと手を置いた。
岩屋の外で、夜が明けていく。
鈴は玄斎の亡骸の傍らで、涙の奥にひとつの名を刻みつけていた。
——黒沢監物。
家族を裏切り、すべてを奪った男。そして、いまも自分の命を狙う者の名を。




