第十一話 錨を下ろす
朝の光の中で、二人は玄斎を葬った。
岩屋のかたわら、陽の当たる斜面に、柊が刀で土を掘った。鈴はその亡骸に、自分の手で土をかけた。墓標の代わりに、小さな石をいくつか積む。名を刻むことも、線香をあげることもできなかった。けれど、せめてけものに荒らされぬように。鈴は最後の石を置いて、長く手を合わせた。
冷たい風が、斜面の草をさわさわと撫でていった。
——また、わたしのために、人が死んだ。
その思いは、もうただ悲しいだけのものではなくなっていた。胸の底で、悲しみが別の、固い何かに変わりはじめている。
これまで、鈴はただ守られてきた。登世に。柊に。玄斎に。みなが自分の代わりに、傷つき、命を落とした。そのたびに、鈴は立ちすくみ、泣くことしかできなかった。
——もう、いやだ。
もう、誰かの背に隠れて震えているだけは、いやだった。
「黒沢監物とは」鈴は、ふいに口を開いた。「どのような、男なのですか」
土の汚れを払っていた柊の手が、その名にほんの一瞬、止まった。
「……藩の、筆頭家老に次ぐ実力者だ」柊は低く答えた。「冷徹で、抜け目がない。表向きは、忠義に厚い能吏で通っている。あの男の本性を知る者は、もうほとんど生きてはおるまい」
その口ぶりに、鈴はかすかな違和を覚えた。柊はまるで、黒沢を間近で見てきた者のように語った。けれど、それを問いただす前に、柊は静かに付け加えた。
「家老の不正をあばくなど、もとより、容易なことではない。まして、おれたちは追われる身だ。証もなく声を上げたところで、虫けらのように握りつぶされて終わる」
「では、証を、立てればよいのですね」
鈴の言葉に、柊が顔を上げた。
鈴は懐から、貝細工の櫛を取り出した。手のひらの上で、それは朝の光を受けて、淡く光った。
「玄斎どのが、教えてくださいました。わたしの力の、使いかたを。——わたしは、もうただ流されるだけの娘では、いたくありません」
柊が何かを言いかけた。鈴は首を振って、それを制した。
そして、目を閉じた。
玄斎の、最期の言葉を思い起こす。
——念に、飲まれてはなりませぬ。ご自分の、息を。心の臓の音を。それだけを、片時も、手放さぬのです。
鈴は、自分の息に意識を向けた。吸って、吐く。胸の奥で、とくとくと打つ心の臓の音。それを一点の錨のように、深く深く、心の底へ下ろしていく。
そして——櫛を両手で、そっと包んだ。
いつものように、冷たいものが流れ込んでくる。けれど、今度は違った。
鈴は流されなかった。
息を、手放さなかった。心の臓の音を、見失わなかった。押し寄せる念の奔流は、鈴を飲み込まずに、ただその身を通り抜けていく。激流の中に、一本の杭を打ち込んで立っているように。
鈴は、自分が自分のまま、そこにいるのを感じた。
そして、玄斎の言葉どおりに、心の中で問うた。
——母さま。あなたは、わたしに何を遺してくれたのですか。
すると。
濁流の中から、ひとつの情景が、すうっと浮かび上がってきた。
それは、雨の夜ではなかった。穏やかな、灯火のともる夜だった。若き日の母が、生まれたばかりの赤子を——鈴を、膝に抱いている。その傍らで、母は一枚の薄い紙を、小さく折りたたんでいた。
母の唇が、囁くように動いた。今度は、はっきりと聞こえた。
——よいですか。もしものことがあれば、これを。御影のまことを記した、この文を。これさえあれば、いつかあの者の罪も、明るみに出ましょう。
母は、その折りたたんだ文を、櫛の背のわずかな隙間へとそっと滑り込ませた。——鈴が今、この手に握っている、まさにあの櫛だった。
鈴は、はっと息を呑んだ。
念が、すうっと引いていく。鈴は目を開けた。
世界が、くっきりと見えた。飲まれなかった。視たいものを、視た。生まれてはじめて、自分の力を自分の意志で使いきったのだ。
胸が、熱く高鳴っていた。
けれど、それ以上に。
鈴は震える指で、手の中の櫛を裏返した。貝細工のその背を、じっと探る。果たして、漆の剥げた櫛の背の合わせ目に、指の腹が、かすかな紙の感触を捉えた。
「柊さま」鈴の声が震えた。「ここに……御影の真実を記した母の文が、隠されています」
柊の目が、大きく見開かれた。
朝の光が、二人を照らしていた。
長いあいだ、ただ追われ、奪われ、隠れるばかりだった。けれど今、はじめて鈴の手の中に、反撃の糸口が握られていた。
「行きましょう」鈴は顔を上げた。その目には、もう、あの怯えた下働きの娘の色はなかった。「黒沢監物の、罪を。御影の無念を。——わたしの、この力で必ず、明るみに出してみせます」
風が、二人の背を前へと押すように吹き抜けていった。




