第十二話 母の文
岩屋に戻ると、鈴は震える指で、櫛の背の合わせ目を慎重に開いた。
十五年、隠されていた文だ。少しでも力を込めれば、破れてしまいそうだった。鈴は息を詰め、爪の先で、漆の剥げた隙間から、薄い紙片をそっと引き出した。
幾重にも小さく折りたたまれた、和紙だった。黄ばみ、端は脆く崩れかけている。鈴はそれを手のひらの上で、ひとひら、ひとひら、丁寧に開いていった。
中には、細く美しい筆跡で、文字がびっしりと記されていた。
——けれど、鈴には、それが読めなかった。
下働きとして育った鈴は、文字を習ったことがなかった。墨の連なりが何を語っているのか、わからない。母が命がけで遺してくれた言葉が、目の前にあるのに、それを読むことができない。
鈴の目に、悔しさの涙がにじんだ。
「……おれが、読もう」
柊が静かに言って、手を差し出した。鈴はためらいながら、その文を託した。
柊が文に目を落とす。読みはじめる前に、鈴は、ひとつ思いついた。
布を巻いていない、むき出しの指先を、柊の持つ文の端へとそっと添える。玄斎の教えどおり、息を、心の臓の音を、錨のように下ろす。そして問うた。——母さま。あなたが、これを書いたとき、何を思っていたのですか。
柊が、低い声で読みはじめた。
その声と重なって、鈴の指先に、母の念が流れ込んできた。
「——これを読む者が、我が子であることを、祈ります」
柊の読み上げる、母の言葉。そして同時に、鈴の胸に、若き母が灯火のもとで筆を走らせる、その夜の心が、ありありと伝わってきた。深い愛しさ。そして、ひたひたと迫る暗い予感。
「御影の家は、近く、滅ぼされるやもしれませぬ。これは、当主どの——あなたの父君が、その力で、ある罪を暴いてしまったがゆえ」
鈴は息を殺した。
「藩のご家老・黒沢監物。あの者は、もとは、この御影の家に仕える、ご家臣でした。父君が、我が身内の如く信を置いておられた者。——されど、その裏で、黒沢は、御影の力を恐れる城の一派とひそかに通じ、家の内情を、売り渡しておりました」
裏切り。鈴の脳裏に、玄斎の言葉がよみがえる。
「それに気づいた、忠義のご家臣・佐倉どのを、黒沢は、口を塞ぐため、ひそかに手にかけたのです。父君は、亡き佐倉どのの遺された筆に触れ、その最期の念から、黒沢の裏切りと、人殺しの、すべてを視てしまわれました」
刃。誰かの、声にならぬ最期。御影の力は、誰の秘密も暴く——だから、恐れられた。だから、消された。
「父君は、情け深いお方ゆえ、黒沢を、すぐには訴え出ず、まず本人に、罪を悔いて自ら表に出るよう、説かれました。——それが、あだとなったのです」
柊の声が、わずかに沈んだ。鈴の指先には、母の、胸を締めつけるような後悔と、恐れが伝わってくる。
「追いつめられた黒沢は、悔いるどころか、城の上つ方と謀り、わたくしども一族を、亡き者にしようと決めました。御影さえ消えれば、己の罪を視る者は、いなくなる。そして、その褒美に、城での高き地位を、約されたのです」
すべてが、つながった。御影が滅ぼされた、まことの理由。黒沢が、いまも鈴を執拗に追う理由。——そのすべての根に、ひとりの男の裏切りと、保身が、横たわっていた。
「縁。わたくしの、愛しい娘」
母の言葉が、ふいに、鈴ひとりへと向けられた。柊の声も、そっと優しくなる。
「もし、あなたが生きて、これを読んでいるなら。どうか、己を責めないで。あなたが生まれたことは、ひとつも罪ではありませぬ。あなたは、わたくしと父君の、何よりの宝でした」
鈴の頬を、涙が伝い落ちた。指先の念が、母のあふれるような愛で、温かかった。
「この文が、いつか、黒沢の罪を明るみに出す、楔となりますように。そして、あなたが——御影の最後のひとりが、どうか、しあわせに生きられますように」
そこで、文は終わっていた。
岩屋に、しばらく沈黙が落ちた。鈴は文から指を離し、涙をこぶしでぬぐった。
「……これが、あれば」鈴は、声を絞り出した。「黒沢の罪を、問えるのですね」
柊は、すぐには答えなかった。文を丁寧に折りたたみ、鈴の手に戻す。その横顔は、苦渋に満ちていた。
「この文は、確かに、動かぬ証だ。亡き奥方の直筆。御影を売り、人を殺めた、黒沢の罪。——だが」
柊は、鈴を見た。
「黒沢は、今や藩の重鎮だ。一介の追われ者が、この紙切れ一枚を掲げたところで、誰が耳を貸す。下手をすれば握りつぶされ、文ごと、闇に葬られて終わる」
「では、どうすれば」
「……この訴えを、正しくお上に届けられる者。黒沢の権勢を、恐れぬだけの力を持つ者。そういう後ろ盾が、要る」柊は低く言った。「ひとり、心当たりが、ある。だが——」
そこで、柊は言いよどんだ。その目に、また、鈴が問いただせずにいる、あの暗い影がよぎった。
「その御方に会うには、おれ自身の過去と、向き合わねばならぬ」
鈴は、その横顔を見つめた。柊が、まだ語っていない、あの夜のもうひとつの真実。それが、すぐそこまで来ている気がした。
問いかけようとした、そのときだった。
岩屋の外、遠い谷あいから——ひゅう、と、鋭い音が響いた。
柊の顔が、険しくなった。それは、風の音ではなかった。
「呼子笛だ」柊が、立ち上がった。「氷室の手の者が、この山を狩り立てている。——傷を癒す間も惜しんで、もう嗅ぎつけてきたか」
鈴も、文を懐に、立ち上がった。
長い夜が明けても、追っ手は止まらない。けれど、鈴の手には、もう、ただ逃げるだけだった昨日とは違う、確かなものが握られていた。
「行きましょう、柊さま」鈴は言った。「あなたの、心当たりの御方のもとへ」




