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触れた物の記憶が視えてしまう ~忌み子と疎まれた下働きの娘は、絶えた血筋の最後のひとりだった~  作者: 智珠


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第十三話 背負うもの

呼子笛の音は、山のあちこちで、こだまのように鳴り交わしていた。


氷室は傷ついた身でなお、手の者を放ち、山ひとつをまるごと狩り立てているらしかった。鈴と柊は、岩屋を捨て、沢を下流へと下った。陽は高く昇っていたが、追っ手の気配は、四方からじわじわと迫ってくる。


「このまま下れば、必ず、ぶつかる」柊が低く言った。「だが、迂回する道を、おれは知らぬ。この山は、土地の者でなければ——」


「待ってください」


鈴は足を止めた。沢沿いの、苔むした岩。その上に、つい先ほどまで誰かが立っていた気配があった。


鈴は、布を解いた手のひらを、その岩へそっと当てた。息を、心の臓の音を、錨のように下ろす。そして問う。——ここに立った者は、どこから来て、どこへ行った。


冷たい念が、すうっと像を結んだ。


物見の侍が、ひとり。この岩から、沢の上流と東の尾根とを見張っていた。男の心にあったのは——「西の谷だけは、崖が深く、人は通れぬ。ゆえに、誰も置かぬ」。


鈴は目を開けた。飲まれなかった。視たいものだけを、正しく視た。


「西の、谷です」鈴は息を弾ませて言った。「そこだけ、見張りがいません。崖が深くて、誰も通れないと思われています」


柊が鈴を、まじまじと見た。それから、ふっと口の端をゆるめた。


「……たいした、目だな」


その言葉が、鈴の胸に温かく灯った。気味悪い、と蔑まれてきたこの力を、たいした目と言ってくれた人は、柊がはじめてだった。


二人は、西の谷へ向かった。柊が言うとおり、崖は深く道なき道だったが、追っ手の声は、そこにはなかった。岩をつたい、木の根をつかみ、半日かけて、二人はようやく追っ手の輪を抜け出た。


日が傾く頃、山を抜けると、眼下に、低い丘とひらけた里の連なりが見えた。


「……ひとまずは、振り切ったか」柊が岩に背を預け、長い息を吐いた。


鈴も、その隣に腰を下ろした。膝が笑っている。けれど、不思議と心は落ち着いていた。


「柊さま」鈴はたずねた。「わたしたちがこれから訪ねる御方とは、どなたなのですか」


柊は、すぐには答えなかった。沈む西日を、まぶしげに見つめている。


久世くぜさま、と申される」やがて、柊は口を開いた。「藩の御目付を、長く務められた御方だ。今は役を退いておられるが、その名は、いまも重い。清廉で知られ、上に媚びず、下を侮らぬ。黒沢の権勢を、唯一恐れぬであろう御方だ」


「では、その久世さまに、母の文を」


「ああ。久世さまならば、握りつぶしはせぬ。正しくお上に、届けてくださるはずだ」柊はうなずいた。だが、その横顔は晴れなかった。「……問題は、おれのほうだ」


鈴は黙って、続きを待った。


「あの夜、御影を出てから、おれは生きる気力を失っていた」柊は、ぽつりと語りはじめた。「人を斬った手で、どう生きればいいのか、わからなかった。野垂れ死のうとしていたそんなおれを、拾い育ててくださったのが——久世さま、その人だ」


鈴は息をのんだ。


「久世さまは、おれの命の恩人だ。実の子のように、慈しんでくださった。剣も学問も人の道も、すべてあの御方に教わった」柊の声が、苦渋に沈んでいく。「だが——おれはついに、申し上げられなかった。自分が、あの夜御影を襲った者の、ひとりであったことを。久世さまが、誰より御影の家を惜しんでおられたのを、知っていたから」


鈴は、ようやくわかった。柊が背負ってきた、重荷の正体を。


「久世さまの前に、あなたさまをお連れすれば」柊は絞り出した。「おれはすべてを、打ち明けねばならぬ。十五年隠し通してきた、おれの罪を。——恩人に、最も知られたくなかった、その罪を」


西日が、柊の横顔を赤く染めていた。


鈴は、しばらく考えた。それから、静かに口を開いた。


「柊さま。わたしは、あなたを恨んではいません」


柊が、はっと鈴を見た。


「あなたは、御影を襲った。それは、まことです。でも、あなたは十五年、その罪を抱え続けてくれた。父の遺言を守るために、城まで裏切って、わたしをここまで生かしてくれた」鈴は、まっすぐに柊を見つめた。「だから、わたしは信じます。久世さまも、きっとあなたの、その十五年を見てくださいます」


柊は何も言えず、ただ鈴を見つめ返していた。その目に、これまで一度も見せなかった、ひどく無防備な光が揺れていた。


日が、丘の向こうへ沈んでいく。


「……行こう」やがて、柊は立ち上がった。「久世さまの庵は、あの里の奥にある」


二人は、夕闇の迫る丘を下りはじめた。


それぞれの重荷を抱えながら。けれど、もうひとりではなかった。

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