第十四話 恩人の前で
久世の庵は、里の奥、竹林に囲まれたつましい構えの一軒家だった。
灯りが障子に、ほのかにともっている。柊はその戸口の前で、長いあいだ立ち尽くしていた。握りしめた拳が、かすかに震えている。鈴はその隣で、黙って待った。
やがて、柊はひとつ深く息を吐くと、戸を叩いた。
「夜分に、申し訳ございませぬ。——柊数馬に、ございます」
しばらくの間。
戸が、内から開いた。
現れたのは、白髪をきちんと結った初老の武士だった。背筋はまっすぐに伸び、その目には、年を経た者の静かな光が宿っている。久世だった。
久世の目が柊を捉え、わずかに見開かれた。
「数馬か。……久しいな。便りもよこさず、息災にしておったか」
その声は、叱るようでいて深い情がにじんでいた。柊がいかにこの人に慈しまれてきたかが、その一言で知れた。
「久世さま」柊は深々と、頭を下げた。「お願いが、ございます。——どうか、まずこの娘の話を、お聞きいただきたい」
久世の視線が、鈴へと移った。鋭く、けれど礼を失わぬ目で、鈴を見つめる。
鈴は前へ進み出て、懐から貝細工の櫛を取り出した。
それを目にした久世の顔が、さっと変わった。
「その櫛は……」かすれた声が漏れる。「まさか。御影の……」
「御影の当主が娘、縁、と申します」鈴はまっすぐ久世を見て、名乗った。生まれてはじめて、誰かの前でその名を。「あの夜、母に逃され、生き延びました」
久世はしばらく、声もなく立ち尽くしていた。その目に、見る間に涙が盛り上がってくる。
「生きて……おられたか」久世は震える声で言った。「御影のご一族が、皆、討たれたと聞いて……わしはどれほど、無念であったか。あのような清廉な家を、むざむざと……」
老武士はその場に膝をつき、鈴に向かって深く頭を垂れた。一国の御目付を務めた人が、追われ者の小娘に。鈴は慌てて、その手を取ろうとした。
「お顔を、お上げください、久世さま」
「いや。これは、せめてもの罪滅ぼしじゃ」久世は首を振った。「あの夜、御影を救えなんだ、わしらの不甲斐なさへの」
そのときだった。
「久世さま」
それまで黙していた柊が、一歩前へ出た。その声が、ひどく硬い。
「お話があると、申しました。——縁さまをお連れするにあたり、わたしにはどうしても、お伝えせねばならぬことがございます」
柊はその場に両膝をつき、額を地につけた。
「十五年前、御影を襲った、城方の手の者の中に……このわたくし、柊数馬がおりました」
庵に、しんと静寂が落ちた。
「わたくしは、あの夜命じられるまま刀を抜き、御影のご家中の者を手にかけました。そして、炎の中で、瀕死の当主さまから、姫君を頼む、とのお言葉を賜った。——以来、その償いだけを胸に、生きてまいりました」
柊の声は、震えていた。
「久世さまが、御影を誰より惜しんでおられたのを存じながら……わたくしは、おのれの罪をついに、申し上げられなかった。恩を受けながら欺き続けた、卑怯者にございます。——どうか、お叱りを」
額を地につけたまま、柊は動かなかった。
鈴は息を詰めて、久世を見た。この優しい老人が、どれほど傷つき、怒るだろうか。柊を、見限ってしまうのではないか。
だが。
久世は、静かだった。
長い、長い沈黙のあと、老武士は、ふっと息を吐いた。そして、ひどく穏やかな声で言った。
「数馬。——わしは、とうに知っておった」
柊が、はじかれたように顔を上げた。
「……え」
「あの夜、御影屋敷から、ひとりの少年が、血まみれの刀を提げ、虚ろな目でさまよい出てくるのを、わしはこの目で見ておった」久世は、遠い夜を見るように、目を細めた。「わしは、すべてを察した。この子は、御影を手にかけた側の者だ、と。——それでも、わしはお前を拾った」
鈴も、息をのんだ。
「なぜ、だと思う」久世は柊を、まっすぐに見た。「あの虚ろな目の奥に、消えぬ悔いの色を見たからじゃ。人を斬って、なおおのれを許せぬ。その苦しみを抱えられる者ならば——いつか必ず、罪を償う道を選ぶ。わしは、そう信じた」
柊の目から、堪えきれず涙がこぼれ落ちた。
「お前は十五年、よくその重荷を背負うた。そして今、御影の忘れ形見を、その手で守り抜いて、ここまで連れて来た。——数馬。お前は、わしの見込んだとおりの男になった」
柊は声を上げて、泣いた。十五年、ひとりで抱え続けた荷が、はじめて許された瞬間だった。
鈴の目にも、涙があふれていた。
久世はゆっくりと、二人を見渡した。その目がやがて、御目付であった頃の鋭い光を取り戻す。
「さて——縁どの。その櫛に、何か御影の真実を伝えるものが隠されておるのだな」
「はい」鈴は母の文を差し出した。「母が、遺したものです。御影が、なぜ滅ぼされたか。誰が、裏切ったか。——黒沢監物の罪のすべてが、記されています」
久世の眉が、その名にぴくりと動いた。文を受け取り、灯りのもとでゆっくりと目を通していく。読み進めるにつれ、その顔は険しく、そして怒りに染まっていった。
「……おのれ、黒沢」読み終えて、久世は低く呻いた。「御影に仕えながら、その家を城へ売り、忠義の佐倉どのを手にかけ……そのうえ露見を恐れて、一族もろともに……」
久世は文を、固く握りしめた。
「この文があれば、黒沢の罪を、問える。じゃが——」老武士の顔が、ふいに曇った。「事は、容易ではない。黒沢は今、藩主さまのご信任厚き身。並の訴えでは、もみ消される。何より——」
久世は、声を落とした。
「黒沢は、御影の血がいまだ生きておると、すでに勘づいておる。氷室を放ったのが、その証じゃ。あの男は必ず、ここへも手を伸ばしてくる。——時は、もうあまりないと思え」
庵の外で、竹林が夜風に、ざわりと鳴った。
その音が、まるで忍び寄る追っ手の足音のように、鈴の耳には聞こえた。




