第十五話 久世の一手
竹林のざわめきが、止んだ。
その不自然な静けさに、柊がすっと立ち上がった。庵の灯りを、ふっと吹き消す。闇の中、障子の向こうに、いくつものひそやかな足音が、忍び寄ってくるのがわかった。
「氷室の手の者だ」柊が低く言った。刀の鯉口を切る。「縁さま、久世さまの後ろへ」
鈴は息を殺した。けれど、もうただ震えてはいなかった。むき出しの指を、そっと床板へ這わせる。問う。——この庵を囲んでいる者は、幾人。
冷たい念が、像を結んだ。庭に三人。裏手に二人。そして、母屋の正面に、ひとり——あの、酷薄な気配。氷室。
「五人。それと、氷室が、表に」鈴は囁いた。
柊の目が、わずかに見開かれた。今や、鈴の力は、目の届かぬ闇の向こうまで見通している。
そのときだった。障子が、外から音もなく切り裂かれた。
黒い影が二つ、躍り込んでくる。柊が前へ出た。一人目の刀を弾き、二人目の刀身を鞘で受け流す。狭い室内で、刃と刃が火花を散らした。
だが、五人だ。柊ひとりでは、捌ききれない。一人が柊をすり抜け、鈴へと刃を向けた。
「縁さま!」
鈴がとっさに身を伏せた、その刹那。
「——狼藉者が」
凜とした老いた声が、闇を貫いた。
久世だった。いつのまにか奥の間から、一振りの刀を提げて立っている。その構えは、年老いてなお隙がなかった。鈴に迫った刺客の刀を、横ざまに打ち払う。
「この久世が庵で、血を流す気か。——外の、氷室とやら。出てまいれ」
久世の声に、刺客たちの動きが、ふと止まった。
ややあって、正面の闇から、痩せた人影がゆっくりと姿を現した。氷室だった。月明かりに、その酷薄な目もとが、白く浮かぶ。
「……御目付を退かれた、久世さま」氷室の声は、相変わらず平坦だった。「お引きくだされ。我らが用は、その娘ひとり。あなたさまに、害を加える気はござらぬ」
「ほう」久世は刀を提げたまま、一歩も引かなかった。「では、問う。その娘を、何の咎で捕らえる。藩の、いずれのお沙汰による召し捕りか」
氷室は答えなかった。
「答えられまい。これは、お上の沙汰にあらず。黒沢監物がひそかに放った、私の狩り。——違うか」
氷室の平坦な気配が、ほんのわずかに揺らいだ。
「言うておく」久世の声が、低く鋭くなった。「わしはすでに、しかるべき筋に書状をしたためた。万一、この久世の身に、あるいはこの娘の身に不慮のことあらば、その書状が開かれる。御影の血が、生きていたこと。それを、黒沢が闇から闇へ葬ろうとしたこと。すべてが、白日のもとにさらされるのだ」
氷室の目が、すうっと細くなった。
「黒沢の力は、影に潜んでこそ。御影を闇で消し、その上に築いた地位。——その影を、わしが引きずり出すと言うておる。さあ、それでもここで、刃を振るうか」
長い沈黙が、流れた。
やがて、氷室はすっと刀を鞘におさめた。
「……今宵は、退きましょう」氷室は平坦に言った。だが、その目は氷のように冷たかった。「されど、久世さま。あなたさまが、その娘に肩入れすると決めたのなら——もはや、あなたさまも我らの敵にござる。次は、書状ごと闇に葬るまで」
言い捨てて、氷室の影は、刺客たちとともに、闇へと溶けるように消えていった。
竹林に、再び夜風が戻ってくる。
鈴は、ようやく詰めていた息を吐いた。刃を交えずに、追っ手を退けた。剣ではなく、ただ言葉と、立場の力で。
「……すごい」鈴は思わず、呟いた。
「いや」久世は刀をおさめ、ふっと息を吐いた。その横顔は、険しかった。「これで、わしも後戻りはできぬ。黒沢は明日には、わしが御影の血を匿ったと知るだろう。猶予は、もうないと思え」
久世は、二人を見据えた。
「聞け。黒沢の罪を問う道は、ひとつしかない。——藩主さま、その人に直に、この文をお届けするのだ」
「藩主さまに……」鈴は息をのんだ。
「うむ。黒沢がいかに権勢を誇ろうと、藩主さまのお裁きの前では、ただの臣下に過ぎぬ。御前ですべての真実が明かされれば——黒沢とて、逃れる術はない」久世の目に、御目付の鋭い光が戻っていた。「幸い、わしにはまだ、御前に出るわずかな伝手が残っておる。だが、城は黒沢の、庭も同然。一筋縄では、いくまい」
朝が、近づいていた。
鈴は母の文を、固く握りしめた。逃げる旅は、終わった。ここからは、攻める旅だ。
「参りましょう」鈴は顔を上げた。「藩主さまの、おわす城へ」




