第十六話 敵の庭
二日かけて、三人は城下へ入った。
久世の手引きで、町外れの古い造り酒屋の、奥座敷に身を寄せた。主は、久世が御目付の頃から信を通わせてきた、口の堅い男だという。それでも、鈴は気を抜けなかった。ここは、黒沢の膝もとなのだ。
格子窓の隙間から見える城下は、活気に満ちていた。人が行き交い、物が売られ、子らが笑い声をあげて駆けていく。——この穏やかな町のどこかに、家族を屠った男が、何食わぬ顔で暮らしている。そう思うと、鈴の胸は冷たく、ざわついた。
久世は着くなり、御前へ通じる伝手を求めて町へ出ていった。鈴と柊は、奥座敷でひたすら待った。
待つあいだ、柊はほとんど口をきかなかった。窓の外を、険しい目で見つめている。城が近づくほどに、その横顔は固く、強ばっていった。
昼下がり、表の通りがにわかに、ざわめいた。
「——ご家老さまの、お通りである。道を空けよ」
供の者の、よく通る声。鈴は思わず、格子窓へ顔を寄せた。
通りの真ん中を、立派な行列が進んでくる。その中ほど、塗りの美しい駕籠の垂れが、風でふと上がった。
中に、ひとりの武士が座していた。
歳は、五十がらみ。総髪に白いものが混じり、品のよい、整った顔立ちをしている。背筋を伸ばし、穏やかに前を見据えるその姿は、いかにも忠義に篤い、藩の重臣そのものだった。誰がどう見ても、非の打ちどころのない立派な侍。
「あれが……黒沢監物だ」
隣で、柊が押し殺した声で言った。
鈴は息をのんだ。
あの、穏やかな顔の男が。一族を売り、忠臣を斬り、御影を火と血で塗りつぶした張本人。その内に潜むものと、その外面のあまりの隔たりに、鈴はぞっとした。悪は、鬼の顔をしてはいない。穏やかな立派な顔をして、すぐ隣に座っている。
駕籠が通り過ぎていく。その一瞬、鈴は、駕籠の中の男と目が合ったような気がした。むろん、向こうがこちらに気づくはずもない。けれど、その視線の冷たさが、格子越しに鈴の肌を刺した。
行列が去っても、柊はしばらく、こぶしを握りしめたまま動かなかった。
「柊さま」鈴はそっと、たずねた。「あなたは、黒沢を……間近で、知っているのですね」
柊の肩が、びくりと震えた。
長い沈黙のあと、柊は低く絞り出した。
「……あの夜、御影におれを差し向けた、城方の組頭。それが、黒沢、その人だ」柊の声は、苦かった。「おれは、あの男の下にいた。何も知らぬまま、あの男の手駒として、御影を襲ったのだ」
鈴は言葉を失った。
柊が背負う罪が、黒沢という男にまっすぐつながっていた。あの夜のすべてが、ひとりの男の掌の上で起きていた。
「だから、おれは」柊は絞り出した。「この手で必ず、あの男を——」
そこへ、奥の戸が開いた。久世が戻ってきたのだ。
その顔には、わずかな手応えと、それ以上の緊張が浮かんでいた。
「伝手が、つながった」久世は声を低めて言った。「三日後、藩主さまが菩提寺へ、ご参詣なされる。その帰り、わしがじきじきに御前へ、お目通りを願える手はずが整った。文をお渡しするなら、その時をおいてない」
「では」鈴の声が、弾んだ。「ついに」
「うむ。だが——油断は、ならぬ」久世の目は晴れなかった。「この話を取り次いでくれたのは、城のさる用人だ。古い、信のおける男のはずだが……何分、城は黒沢の、庭。どこに、目と耳があるか知れぬ」
その夜、鈴はふと目を覚ました。
久世が持ち帰った、御前への添え状。その文箱が、枕もとに置いてあった。鈴はなぜか胸騒ぎがして、布を解いた指を、そっとその文箱に触れさせた。
息を、錨を下ろす。そして、問うた。——この文箱は、誰の手を経てきたのか。
冷たい念が、流れ込んできた。久世の手。取り次ぎの用人の手。そして——その用人が、誰かにひそひそと囁く声。「久世が御影の小娘を連れ、三日後、菩提寺で御前に出る。……黒沢さまに、すぐお知らせを」
鈴の全身から、血の気が引いた。
取り次ぎの、用人が。黒沢の、手の者だった。
——この、御前へのお目通りは、罠だ。
闇の中、鈴は文箱を握りしめたまま、震える声で柊を呼んだ。




