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触れた物の記憶が視えてしまう ~忌み子と疎まれた下働きの娘は、絶えた血筋の最後のひとりだった~  作者: 智珠


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第十七話 罠の中へ

「罠……だと」


鈴の報せに、柊の顔から血の気が引いた。久世も、すぐに身を起こした。


「取り次ぎの用人が、黒沢の手の者でした」鈴は文箱を握りしめ、声を震わせた。「あの男はすぐに、黒沢へ知らせると……御前のお目通りは、はじめからわたしたちをおびき寄せるための、罠だったのです」


久世の顔が、苦渋に歪んだ。


「……してやられたか。御前への伝手と見せて、黒沢の、掌の上だったとは」老武士は、こぶしを膝に打ちつけた。「すまぬ。わしの、迂闊だ」


「ならば、この城下を、すぐに離れねば」柊が立ち上がった。「夜明けを待たず、ここを発つ。久世さま、お早く」


「待ってください」


鈴の静かな声が、二人を止めた。


柊と久世が、振り返る。鈴は文箱を抱いたまま、座したまま、じっと二人を見上げていた。その目には、もう迷いがなかった。


「逃げて、どうなるのでしょう」鈴は言った。「逃げても、黒沢は追ってきます。登世婆さまも、玄斎どのも、わたしを逃がすために死にました。この先も、わたしが逃げ続ける限り、わたしを匿う人が傷つき、命を落とす。——もう、いやなのです」


柊が息をのんだ。


「黒沢の罪を問える機会は、藩主さまの御前をおいて、ほかにありません。その御前が、罠だというのなら——」鈴はゆっくりと立ち上がった。「その罠の中で、こちらが黒沢を討てばいい。逃げる代わりに、わたしはその舞台に立ちます」


しんと、座敷が静まりかえった。


久世が鈴を、まじまじと見つめた。御影の血を継ぐ、十五の娘。出会ったときには、ただ追われ、怯えていたその娘の目に、今は、亡き当主にも比すべき静かな覚悟が宿っていた。


「……縁どの」久世は唸るように言った。「正気か。御前に、黒沢が待ち構えておる。一歩間違えれば、その場で捕らえられ、文ももみ消され、命まで失う」


「わかっています」鈴はうなずいた。「でも、わたしには力があります。——黒沢が決して言い逃れできぬ証を、藩主さまの御前で、この力で突きつけてみせます」


久世は長いあいだ、鈴を見つめていた。やがて、その厳しい顔がふっとほどけた。


「……御影の、血よ」老武士は感じ入ったように、呟いた。「よかろう。命を懸ける覚悟があるなら、この久世、知恵のすべてを貸そう。——御前で、黒沢の化けの皮をはいでやる」


久世は、声を低めた。


「文だけでは、黒沢は偽りと言い張るだろう。じゃが、そなたが御前で、佐倉どのの最期を——黒沢しか知り得ぬその殺しの様を、ありありと語ってみせれば。藩主さまも、ただの世迷い言とは思われまい。あとは、その証言をもとに佐倉どのの死を改めて検めれば、必ず、毒なり刃なりの跡が出る」


筋道が、見えた。鈴の視る力が、人の口を開かせる楔となる。


そのときだった。


階下で、ことりと物音がした。


柊の手が、即座に刀へ伸びた。鈴も、布を解いた指を床に這わせる。問う。——今、この酒屋に入ってきた者は。


冷たい念が、瞬時に像を結んだ。土間に、足音を殺した数人の影。先頭の、痩せた背の高い男——氷室。


「氷室です。もう、ここへ」鈴が囁いた。「用人の報せが、届いたんだわ」


「早いな」柊が刀を取り、鋭く言った。「久世さま、縁さま、裏手へ。この酒屋の主に、抜け道を聞いてある」


三人は灯りを消し、闇にまぎれて奥へと走った。酒屋の主が震えながらも、酒蔵の奥の隠し戸を開けてくれる。背後で、表の戸が荒々しく破られる音がした。氷室たちが、なだれ込んでくる。


隠し戸のその先は、細い裏路地へと続いていた。三人は、夜の城下へ転がり出た。


「主が……」鈴が振り返ろうとする。


「案ずるな」久世が低く言った。「あの男は、何も知らぬで通す。黒沢とて、確たる証なく町の酒屋を、いきなり手にかけはせぬ」


三人は夜の路地をいくつも折れ、ようやく町外れの、打ち捨てられた稲荷の祠の陰に身をひそめた。


荒い息を、整える。氷室の追っ手は、どうやら撒いたらしい。


「……明日だ」久世が闇の中で言った。「明日、藩主さまは菩提寺へ、参詣される。罠と知って、その場へ乗り込む。——もう、後戻りはできぬぞ」


鈴は母の文を、そっと胸に抱いた。


明日、すべてが決する。家族を奪った男の前に、御影の最後のひとりが立つ。逃げ続けた十五年に、終止符を打つために。


東の空が、しらじらと明けはじめていた。


その淡い光を、鈴はまっすぐに見つめた。怯えは、もうなかった。

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