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触れた物の記憶が視えてしまう ~忌み子と疎まれた下働きの娘は、絶えた血筋の最後のひとりだった~  作者: 智珠


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第七話 霧の渡し

雨は上がりかけていた。代わりに、夜明け前の野に白い霧が湧きはじめている。


鈴は、ただ走った。あぜ道は雨でぬかるみ、素足が泥に沈む。何度も足をとられ、そのたびに柊の手が強く腕を引き上げた。背後では馬の蹄が地を打ち、松明の灯りが霧をぼんやりと赤く染めている。


近い。確実に、近づいている。


馬と人の足では、勝負にならなかった。鈴の息は、とうに上がっていた。胸が焼け、足がもつれる。日頃、満足に食べてもいない体だ。長くは、もたない。


「もう少しだ」柊が、息を切らしながら言った。「川がある。あれを越えれば」


野を抜けると、目の前が急にひらけた。


川だった。雨で水かさを増し、黒々とした水面が霧の中を不気味に流れている。だが——渡るための舟は、向こう岸につながれていた。橋は、ずっと下流。そこまで行けば、追手に追いつかれる。


「くそ」柊が、低く呻いた。


水際まで来て、二人は行き場を失った。背後の蹄の音は、もうすぐそこまで迫っている。


鈴は川岸に膝をついた。逃げ場はない。絶望が、足もとから這い上がってくる。


そのとき、つこうとした手のひらが川辺の古い杭に触れた。


布のほどけた指先に、つめたいものが流れ込んできた。


——舟だ。声が聞こえた。年老いた、渡し守の声。「夜の渡しは、あすこの葦の陰さ。隠してあるだ。流れの浅いとこは、この杭の、ちょうど真上手」


鈴は、はっと顔を上げた。


「柊さま」かすれた声で、川上を指さす。「あそこ。葦の陰に、舟が……隠してあります。浅瀬は、この杭の、すぐ上手です」


柊が弾かれたように鈴を見た。一瞬の問い。だが、それも一瞬だった。男はもう走り出していた。


葦をかき分けると、果たして古い小舟が一艘、もやってあった。柊は鈴を抱えるように舟へ乗せ、自らも飛び乗って棹を握る。鈴が示した浅瀬を狙い、棹が川底をぐっと突いた。


舟が滑り出す。


岸に、蹄の音がなだれ込んできた。馬上の影が松明をかざし、闇と霧の中に二人を捜している。


「いたぞ……川だ!川を渡る——」


声が霧にこもって、ぼやけた。


濃い霧がちょうど、二人と岸のあいだに白い帳を引いていく。松明の灯りがみるみる遠ざかり、やがて滲んだ淡い光の点に変わった。


舟が向こう岸の葦に、音もなく滑り込んだ。


二人は舟を捨て、岸の木立の奥へと転がり込むように身を隠した。しばらく息を殺して、川向こうの気配をうかがう。蹄の音は、川岸を行きつ戻りつしていた。渡る舟を見つけられずにいる。


やがて、その音も遠ざかっていった。


助かった。


鈴の全身から、どっと力が抜けた。濡れた地面に座り込む。心の臓が痛いほど打っている。


ふと柊が、自分の羽織を脱いで鈴の肩にかけた。


鈴は驚いて顔を上げた。


「冷えている」柊はぶっきらぼうに言って、目をそらした。「お前に倒れられては、困る」


その手がふと、鈴の足もとで止まった。


素足が、泥と血に汚れていた。逃げる途中、石や切り株でいくども切ったのだろう。鈴自身、痛みに気づいてさえいなかった。


柊は何も言わなかった。ただ懐から手ぬぐいを出し、川の水で濡らすと、その傷を不器用な手つきで拭いはじめた。


鈴の胸が、奇妙に熱くなった。


誰かにこんなふうに手当てをされたことなど——記憶の中に、一度もなかった。憑かれた娘、と遠ざけられて生きてきた。なのに、家を滅ぼした側のはずのこの男が今、自分の汚れた足を黙って拭っている。


「……なぜ」思わず、声が漏れた。「わたしの力を、気味悪いと思わないのですか」


柊の手が止まった。


「思わぬ」短く、男は答えた。「その力に、お前は今おれの命を救われた。——おれもだ」


それから、ぽつりと付け加えた。


「御影の力は、忌むべきものではない。ただ、人が恐れただけだ」


鈴は、もう何も言えなかった。


霧の向こうが、うっすらと白みはじめていた。長い夜が、ようやく明けようとしている。


「どこへ……行くのですか」鈴はたずねた。「わたしたちは、これから」


柊は川下の方角へ、目をやった。


「人を、訪ねる。御影の家に、長く仕えた者だ。あの夜、おれと同じく生き延びた。今は名を変え、山あいに身を隠している」


男の声が、わずかに硬くなった。


「その者だけは、お前が何者かを証してくれる。お前の力を、御せるように導いてもくれよう。——だが」


柊は鈴を見た。その目に、またあの張りつめた色が戻っていた。


「氷室も、いずれそこへ目をつける。あの男は、執念深い。おれたちが向かう先を読み違えはせぬだろう」


夜明けの光が霧を、淡く金色に染めていく。


その美しさとは裏腹に、鈴の胸には新たな不安が、静かに広がりはじめていた。

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