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触れた物の記憶が視えてしまう ~忌み子と疎まれた下働きの娘は、絶えた血筋の最後のひとりだった~  作者: 智珠


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第四話 御影という名

闇の中に、低い声が滑り込んできた。


「声を立てるな」


柊だった。片手に小さな提灯を提げ、もう片方の手で、戸を後ろ手に閉める。鈴が身構えるより早く、男はすぐ前まで来て、片膝をついた。


「支度をしろ。今すぐ、ここを出る」


「……出る、とは」鈴の声はかすれた。「どこへ」


「問うている暇はない」柊の声は鋭く、けれどどこか急いていた。「城から来た一行の中に、お前を捜している男がいる。氷室という。昼間、お前が櫛を持っていたと、あの男はもう嗅ぎつけかけている。夜が明ければ、屋敷じゅうの女を一人ずつ検めるだろう。そうなれば、お前は終わりだ」


鈴は動けなかった。逃げろと言われても、行く当てなどない。この屋敷の外を、鈴はほとんど知らなかった。


「なぜ」喉の奥から、やっと言葉を押し出した。「なぜ、あなたがわたしを助けるのですか。わたしは、ただの下働きです」


柊の目が、提灯の灯りの中で、ほんのわずかに揺れた。


「お前は、ただの下働きではない」


低く、噛みしめるように、男は言った。


「その櫛は、御影家の世継ぎに代々渡された品だ。御影——十五年前、ひと晩のうちに滅ぼされた家だ。当主も奥方も、家の者は一人残らず討たれた。ただ、生まれたばかりの姫君だけが、行方知れずになった」


鈴の心の臓が、鈍く鳴った。


母の顔。雨。焼ける赤い光。さっき櫛の中で視た、あの夜と、男の言葉が重なっていく。


「まさか」声が震えた。「わたしが、その……」


「確かめている暇はないと言った」柊は立ち上がり、鈴の腕をつかんだ。「その櫛を持ち、その手に念読みの力を宿す娘が、十五の歳でここにいる。それで充分だ。御影の血は、今も追われている。お前が生きていると知れれば、必ず殺しに来る」


つかまれた腕の力は、痛いほど強かった。けれど、不思議と、恐ろしくはなかった。


鈴は櫛を握りしめ、立ち上がった。


二人は、闇の屋敷を音もなく抜けた。


柊は提灯の火を細く絞り、廊下の角ごとに足を止めては、気配をうかがった。鈴は素足のまま、その背にぴたりとついていく。心の臓が、耳の奥で鳴っている。曲がり角の先、表座敷のほうにまだ起きている者の灯りが見えた。


裏木戸まで、あと少し。


そのときだった。前方の廊下に、人影が差した。


柊がとっさに鈴を壁際へ押しやり、自らはその前に立ちふさがる。近づいてくる足音は、一つ。やがて、灯りに浮かんだのは見回りの下男だった。手に、ぼんやりとした行灯を提げている。


「……どなたで」


下男が誰何しかけた、その瞬間。


鈴の手が、壁に触れた。


布のほどけた、むき出しの指先が、ひやりと冷たい板壁をかすめる。とたんに、流れ込んできた。——つい先ほどこの壁にもたれて、誰かが囁いていた声。「裏木戸の鍵は、おれが開けておく。氷室さまの仰せだ」


鈴は、息を呑んだ。


この下男は、氷室の手の者だ。裏木戸は、もう見張られている。


考えるより先に、鈴は柊の袖を強く引いた。柊が振り向く。鈴は声に出さず、ただ首を横に振って、奥のほうを目で示した。


柊の目が一瞬、鋭くなった。そして、何も問わずうなずいた。


二人は身をひるがえし、下男の声を背に闇の奥へと駆けた。


「曲者っ……曲者だ!」


下男の叫びが、夜を裂いた。屋敷のあちこちで、灯りがともりはじめる。


裏ではない。柊は鈴の手を引き、井戸端の暗がりへと走った。鈴が今しがた示した道だ。築地塀の崩れた一角——そこだけ、見張りがいなかった。


「よく、わかったな」走りながら、柊が短く言った。


鈴は答えられなかった。ただ、自分の指先に残る、あの囁きの冷たさを握りしめていた。


塀を越えると、外は雨だった。


田の匂いと濡れた土の匂いが、いちどに鼻をついた。生まれてはじめて見る、屋敷の外の闇。鈴はその雨の中へ、柊とともに足を踏み出した。

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