第三話 櫛にのこる雨
その夜、鈴は眠れなかった。
下働きにあてがわれた寝床は、納屋の隅の、藁を敷いただけの板間だった。隙間風が冷たく、いつもなら泥のように眠ってしまうのに、今夜ばかりは目が冴えていた。胸もとに押し込んだ櫛の、固い感触が消えない。
登世婆さまは、わたしを守って死んだ。
そう思うたびに、胸の奥がきしんだ。十五年、自分は誰でもなかった。名もない、憑かれた娘。墓を掘り、死人を片づけ、隅で息をひそめて生きてきた。そんな自分を、なぜ誰かが捜すというのか。なぜあの侍は、命がけのような目をしていたのか。
わからない。わからないことばかりだった。
ただ一つ、確かなことがある。答えは、この櫛の中にある。
鈴は身を起こした。闇の中で、手に巻いた布の端を、指でそっと探り当てる。
これまで、鈴はこの力を恐れてきた。望んで視たことなど一度もない。触れてしまう、流れ込んでくる、飲まれてしまう——いつも、向こうから襲ってくるものだった。布を巻くのも、壁際を歩くのも、すべてはそれから逃れるためだった。
けれど、今夜は違う。
はじめて、自分から知りたいと思った。
震える指で、手のひらの布をほどいた。冷えた夜気が、むき出しの肌に触れる。鈴は懐から櫛を取り出し、両の手のひらで、そっと包んだ。
息を、ひとつ吐く。
そして、目を閉じた。
——雨が、降っていた。
前よりもずっと深く鮮やかに、それは流れ込んできた。叩きつける雨の音。土と煙の匂い。遠くで、何かが焼ける赤い光が、夜空をにじませている。
若い女が走っていた。裾を乱し、息を切らし、腕の中の赤子を必死にかき抱いて。その顔が、はじめて、はっきりと見えた。
鈴は、息を呑んだ。
——似ている。
目もとが、鼻の線が、どこか自分に似ていた。女は走りながら腕の中の赤子を見下ろし、その目から涙をこぼしていた。泣きながら、けれど決して足を止めずに。
土間に駆け込み、女は登世婆さまに赤子を託した。あの夜の、あの場面。けれど今は、女の唇が動くのが見えた。
——この子を、お願いします。この子の血筋を、決して誰にも。生きて。どうか、生きて。
それから女は、最後にもう一度だけ赤子の頬に頬を寄せた。指で、その小さな襟もとに櫛を挿し直しながら。
何かを囁いていた。名のような、短い言葉を。
けれど、それは雨に紛れ、鈴の耳には届かなかった。
視界が、雨ごと白くにじんで、途切れた。
鈴は板間にうずくまり、両手で櫛を握りしめたまま、声もなく泣いていた。頬が濡れている。それが自分の涙なのか、あの女の涙の名残なのか、もうわからなかった。
母だ。
理屈ではなかった。あの女は、わたしの母だ。
そして母は、わたしを生かすために泣きながら逃げ、見ず知らずの登世婆さまにわたしを託した。それほどまでに——わたしの血は、誰かに追われていた。
知りたい、と鈴は思った。生まれてはじめて、強くそう思った。わたしは誰なのか。なぜ追われるのか。母の囁いた、あの名は——
そのときだった。
納屋の戸の向こうで、ことり、と小さな音がした。
鈴は息を止めた。
こんな夜更けに、誰も納屋へなど来ない。なのに、確かに、人の気配がある。板戸の隙間に、ふっと灯りの影が差した。
戸が音もなく、外から引かれていく。
鈴は櫛を握りしめ、闇の中で身を固くした。




