第二話 形見の名
「その櫛を、どこで手に入れた」
問い返す声も出ず、鈴はただ立ちすくんでいた。
逃げ場はなかった。背には行李と壁、前には戸口をふさぐ侍。羽織の肩がうっすら濡れているのは、表で雨が降りはじめたからだろう。男はそれきり動かず、鈴の手の中の櫛だけを見つめている。
頭の中で、これまで覚え込んだことが警鐘のように鳴った。咎められたら俯け。言い訳をするな。手を見られるな。憑かれた娘がお武家の目に留まって、よいことなど一つもない。鈴は櫛を握る手を背に隠そうとして——できなかった。男の視線が、その動きを許さなかった。
「盗んだのではありません」
かすれた声で、それだけを言った。膝が震えている。「片づけをしていて、行李の底に……ただ、それだけです。返します。すぐ、返しますから」
男はしばらく黙っていた。やがて、ひどく静かに首を振った。
「返せと言ってはおらぬ」
一歩、土間を踏み込んでくる。鈴は思わず後ずさり、行李に背があたった。
「これは、ある家に伝わった櫛だ」男の声は低く、抑えていてもどこか張りつめていた。「とうに絶えたはずの家でな。十五年、この櫛の行方を追ってきた。市にも、寺にも、どこにも出なかった。それが、なぜ——こんな屋敷の、納戸の底にある」
十五年。
その言葉が、鈴の胸の奥で妙に引っかかった。自分が生きてきたのと、同じ年月だ。
男の目が、ふと鈴の手もとに移った。櫛ではなく、その手のひらに巻かれたすり切れた布へ。
「その手は」
鈴はとっさに両手を引いた。けれど、遅かった。
「素手で物に触れぬのか」男の声が、わずかに変わった。問いつめる響きが消え、代わりに信じがたいものを見るような色がにじんだ。「……まさか。お前、触れた物の念が視えるのか」
心の臓が跳ねた。
誰にも言ったことのない秘密だった。物の怪憑きと罵られても、その正体までは誰も知らない。なのにこの男は、たった今、それを言い当てた。まるで、その力をよく知る者のように。
「なぜ」鈴の声は震えていた。「なぜ、それを」
男が答えるより先だった。
表のほうから、幾人もの足音と人を呼ばわる声が近づいてきた。
「使者さま。使者さまはどちらに」
屋敷の家人の声だ。男の眉がはじめて険しく寄った。舌打ちのような短い息を吐き、男は素早く戸口を振り返る。
「聞け」声を落とし、男は早口になった。「これからおれが、その櫛は見つからなかったと言う。お前は何も知らぬ顔をしていろ。櫛は——肌身に隠せ。決して誰の目にも触れさせるな」
何を言われているのか、鈴にはわからなかった。
「あの……」
「いいか」男の目がまっすぐに鈴を射た。それは咎める目ではなかった。むしろ、何かを必死に庇おうとする者の目だった。「この櫛の持ち主だと知れたら、お前はこの屋敷から生きては出られぬ。お前を捜している者は、おれだけではないのだ」
足音が戸口のすぐ外まで来ていた。
男はもう鈴を見ていなかった。襖へ手をかけ、廊下の家人へ向けて何ごともなかったように声を張る。
「ああ、ここだ。なに、ただの納戸よ。捜し物は、見当たらなんだ」
そう言いながら、男の手が背後で鈴のほうへ小さく動いた。櫛を、早く隠せ、と。
鈴は震える指で櫛を懐の奥へ押し込んだ。布越しに、固い貝の感触が胸に触れる。その瞬間、ほんのわずかにまた何かが指先をかすめた。
——雨の匂い。誰かのすすり泣く声。
それは、登世婆さまのものだった。
あの夜、赤子を抱き取ったあと、あの人はひとり声を殺して泣いていた。この子を、なんとしても生かさねば、と。
逃がさねば、と。
鈴の目の奥が熱くなった。
最期の念の意味が、いまようやくわかった。登世婆さまが死の間際まで案じていた「あの子」とは——ほかの誰でもない。
自分だったのだ。




