第一話 手のひらに残るもの
夜の明けきらぬうちに、人の死んだ部屋を掃けと言いつけられた。
冬のはじめの朝で、屋敷の廊下はまだ青く沈んでいた。板敷きは足の裏が痛むほど冷たく、息を吐くと白くにじんで消える。鈴は雑巾を入れた桶を提げ、奥の小部屋へ向かった。歩くたびに足の裏が床に貼りつくようで、その冷たさだけを数えながら進んだ。
小部屋の前まで来て、足が止まった。
中で人が死んでいる。それがどういうことか、鈴にはほかの誰よりもよくわかっていた。
息を整え、雑巾を固く絞る。手のひらに古い木綿を二重に巻きつけ、端を手首できつく結んだ。布越しなら、たいていのものは入ってこない。たいてい、は。
それでも襖の引き手に指をかけた瞬間、しまったと思った。
冷たいものが、指先から手首へ、腕へと這い上がってきた。
息が浅い。いくら吸っても足りない。胸の上に濡れた砂袋を乗せられたように重く、肋が軋む。喉の奥が鳴るばかりで、助けを呼ぼうにも声にならない。天井の木目が、ゆっくりと、ゆっくりと遠ざかっていく。指先が畳をかく。爪が割れるのもかまわず、何かを探すように畳をかき続ける。
誰か。
早く。
あの子を——
そこで、糸の切れるように途切れた。
鈴は引き手から手を離し、廊下に膝をついた。心の臓がまだ走っている。冷たい汗が背を伝った。両手で口を覆い、込み上げるものをこらえる。
今のは自分のものではない。
何度も唱える呪文のように、胸のうちでくり返した。これは登世婆さまが昨夜ひとりで味わったものだ。その最後の苦しみが襖に染みついて残っていただけで、自分が死にかけたわけではない。わかっている。わかっていても、震える指はしばらく言うことをきかなかった。
物には、念が残る。
強く握ったもの。強く想ったもの。ことに人が死に際に手にしたものには、その最後が染み込んで、容易には消えない。鈴は物心ついた頃からそれを読んでしまう。布をしていない手で何かに触れれば、手のひらが勝手に、そこに残された誰かの最期をすくい上げてしまうのだ。
だから鈴の手は、いつも布に覆われている。井戸の釣瓶も、米をとぐ笊も、人にぶつからぬよう伝い歩く壁さえも、素手では触れない。誰とも目を合わせず、声をかけられても俯いてやり過ごす。それでもこうして、ときおり念に飲まれた。
屋敷の者は鈴を憑かれた娘と呼んだ。物の怪が憑いている、目を合わせるな、口をきくな、と。捨て子だった鈴を引き取ったのも、情けからではない。憑き物筋とされる娘は安く使えて、誰もやりたがらない仕事を厭わず押しつけられる。墓を掘る。病人の世話をする。そして、死人の部屋を片づける。鈴の値打ちは、それきりのものだった。
十五になる。生まれた里も、親の顔も、自分の本当の名すら知らない。鈴という名も、拾われた先で誰かが呼びはじめただけのものだ。
ただ一人、登世婆さまだけが違った。
奥向きの古い女中で、もう長く、屋敷の隅で目立たぬように暮らしていた人だった。鈴が念に飲まれて廊下にうずくまっていると、いつのまにか横に座って、何も言わずに背をさすってくれた。憑き物筋だと顔をしかめもせず、にぎり飯をそっと置いていくこともあった。鈴、と呼ぶ声だけが、この屋敷でただひとつ、とげのない声だった。
その登世婆さまが、昨夜ひとりで死んだ。
膝をついたまま、鈴はいま読んでしまった念をもう一度たどった。そうして、奇妙なことに気づいた。
息絶える間際、登世婆さまが最後に案じていたのは、自分の命ではなかった。どこかの子を早く逃がさねばと、ただそればかりを思いながら逝ったのだ。
あの子を。
——婆さまに、子などいない。
身寄りのない者どうし、ただ屋敷の隅でひっそりと年を重ねてきたはずだった。なのになぜ、最期の息で、見も知らぬ子の身を案じたのか。
考え込んでいると、表のほうが急に騒がしくなった。
幾人もの足音が廊下を渡っていく。下女のひとりが血相を変えて駆けてきて、鈴の肩を乱暴に突いた。
「ぼやぼやするな。城から使いの方がお見えだ。奥の間を整えるから、お前は婆さんの荷を納戸へ運んでしまえ」
言うだけ言って、下女はもう背を向けていた。死人の荷など、誰も手を触れたがらない。当たり前のように、鈴に回ってきた。
小部屋へ戻ると、登世婆さまの亡骸はもう運び出されたあとで、薄い夜具と、古びた行李がひとつ残っているきりだった。線香にもならぬ、かすかに饐えた匂いが畳に残っている。
鈴は布を巻いた手で夜具をたたみ、行李に手をかけた。持ち上げようとして、底のささくれに、布の隙間からのぞいた素肌の指先が触れた。
その途端、また視えた。
雨の夜だった。
激しい雨が屋根を叩いている。薄暗い土間に、若い女が立っていた。上等な小袖が裾まで濡れて、肩で息をしている。腕には、布にくるんだ赤子を抱いていた。
女は、その赤子を登世婆さまの腕に押しつけるようにして渡した。指が、小刻みに震えていた。
——この子を、お願いします。この子の血筋を、決して誰にも。
声は、そこで雨にかき消えた。
登世婆さまは赤子を抱き直し、深くうなずいた。痩せた腕が、確かに、しっかりと赤子を抱きしめる。その腕の確かさだけが、鈴の手のひらに、焼き印のように残った。
息が止まった。
くるまれた赤子の襟もとに、櫛が一本、挿してあった。古いが、ひと目で上等とわかる、貝の細工の櫛。里でも屋敷でも、鈴が一度として目にしたことのない品だった。
行李の底を、震える手でさぐる。すり切れた布の包みが指に触れた。布をほどく手が、自分のものでないように震えている。
中から出てきたのは——たったいま、念の中で見たものと寸分たがわぬ、貝細工の櫛だった。
なぜ。
なぜ、こんなものが、登世婆さまの荷の底に。
問いが胸でふくらみ切る前に、背後で、襖の開く音がした。
鈴は櫛を握ったまま、振り返った。
見慣れぬ羽織の侍が、戸口に立っていた。城から来た使いだろう。鈴の顔ではなく、その手のひらの中の櫛に、男の視線は縫いつけられて動かない。
しばらく、男は声もなく立ち尽くしていた。やがて、ひどく静かに、押し殺した声で言った。
「その櫛を、どこで手に入れた」
問いではなかった。
その目にあったのは、長く、長く探し続けたものを、いま、ようやく見つけてしまった者の色だった。




