第三十二話 あるべき光
「……お待ちを、殿」
結城の声は、もはや慈愛の欠片もなかった。だが、その代わりに、別の刃が、その口から滑り出した。冷徹な理屈という、刃が。
「よくよく、お考えくだされ。仮に——仮に、これがまことだとして。先代を害した罪が公になれば、どうなるか」結城はゆっくりと、藩主を見据えた。「あなたさまは、弑逆の上に立った藩主。その正統は地に堕ち、お家は取り潰し。藩は瓦解し、家中の者どもは路頭に迷う。——わたくしが十五年、この秘密を闇に葬ってきたのは、すべて藩の安寧のため。御身をお守りするため、なのですぞ」
それは、最後の毒だった。真実を暴けば、すべてを失う。だから、目をつぶれ、と。
藩主は長いあいだ、その数珠を見つめていた。父の温もりの残る、形見を。
そして、静かに顔を上げた。
「……式部。よう申した」藩主の声は低く、しかし揺るがなかった。「藩の、安寧。お家の、存続。なるほど、重い。——だが」
その目に、涙が光っていた。怒りと悲しみの、涙が。
「父を毒で殺め、無実の御影一族を皆殺しにし、忠義の医師まで手にかけた。その、おびただしい屍の上に築いた安寧など。わしは、要らぬ」
藩主は、立ち上がった。
「真実から目を背けた、その日から。わしはとうに、藩主たる資格を失っておったのだ。——たとえ、お家がどうなろうと。わしは、父の無念を晴らす。それが、子としてのせめてもの務め」
藩主は、居並ぶ侍たちを振り返り、声を張り上げた。
「結城式部を、捕らえよ!先代藩主弑逆の、大罪人である!」
その号令が本堂に轟いた、瞬間。
結城の目の色が、変わった。
追いつめられた獣の、最後のひと暴れ。結城は懐から白刃を抜き放つや、目にも留まらぬ速さで、鈴へと躍りかかった。
「おのれ、御影の、化け物がぁ——!」
すべての元凶たる、その力を。せめて、道連れに。そんな狂気が、その刃に宿っていた。
「縁さま!」
刃が鈴に届く、刹那。
横合いから躍り込んだ影が、あった。柊だった。捕り方を振り切り、本堂へ駆けつけた、その身を盾にして、結城の刃をおのが刀で受け止める。
激しい鍔迫り合い。だが、老いた結城と手練れの柊では、勝負は一瞬だった。柊がぐいと刃を押し返し、その柄頭で、結城の鳩尾を突く。
結城がくずおれた。白刃が、からんと床に転がる。
すかさず、侍たちが殺到し、老獪な家老を組み伏せた。
十五年、藩の頂に君臨した、男。主君を弑し、無辜の一族を葬り、すべてを欺き続けた、その男は。今、縄を打たれ、ただの罪人として、霊前に引き据えられた。
本堂に、長い静寂が流れた。
藩主は、父の数珠を両手で押し頂き、祭壇の位牌に向かって、深く頭を垂れた。その背が、かすかに震えていた。
鈴は、その様子を見つめながら、こみ上げるものをこらえていた。
——終わった。
父も、母も。登世婆さまも、玄斎どのも。宗哲どのも。そして、名も知らぬ御影一族の、すべての人々。十五年、闇に葬られてきた、その無念が。今、ようやく晴らされたのだ。
鈴の頬を、涙が伝った。今度は、悲しみではない涙だった。
「縁さま」
傍らに立った柊が、静かに声をかけた。その肩や腕には、捕り方と斬り結んだ傷が、いくつも刻まれている。
「……よくぞ、成し遂げられた。亡き、御一族も、きっと」
「柊さま」鈴は、その傷を見て、顔を曇らせた。「お怪我を」
「かすり傷です」柊は、ふっと笑った。久しく見なかった、穏やかな笑みだった。
二人の間に流れていた、あの重い影は。まだ、完全には消えていない。母のことは、これからも長く、二人の胸に残るだろう。それでも——こうして共に戦い、共にひとつのことを成し遂げた、その日々が。少しずつ、その溝を埋めはじめていることを。鈴は感じていた。
やがて、藩主が鈴の前に歩み寄った。そして、藩主その人が、御影の娘に向かって、深々と頭を下げた。
「縁。御影の家に、わが藩は二代にわたって、拭いきれぬ罪を重ねた。——此度のこと、すべてわしが責をもって明らかにし、御影の名誉を必ずや回復する。そして、亡き父祖の菩提を、ねんごろに弔おう」
藩主は顔を上げ、鈴を見た。その目には、深い敬意があった。
「そなたの、その力は、忌むべきものではない。奪われた者の声なき声を聞き、闇に葬られた真実を照らす。——まことに、尊い光じゃ」
光。
ずっと、忌み子と蔑まれ、気味悪がられてきた、この力が。今、藩主その人から、光と呼ばれた。
本堂の高い窓から。一条の陽が差し込み、祭壇の位牌を、そして御影の娘を、静かに照らしていた。
長く暗かった、御影とこの藩の物語に。ようやく、まことの光が満ちようとしていた。




