第三十一話 父の数珠
「お控えなさい、殿」結城は、なおも食い下がった。「妖術師のたわごとに、亡き御父君の御形見を汚させるなど、もってのほか——」
「……結城」
藩主の低い声が、それを遮った。
「そなた、なぜそこまで止める」
その目が初めて、まっすぐに結城へと向けられた。探るような、目だった。
「ただの戯言、と申すなら。聞き流せばよいだけのこと。——なぜ、そうも必死になる」
結城の口が、つぐまれた。藩主はゆっくりと、懐からひとつの品を取り出した。
古びた、水晶の数珠だった。
「父上がお倒れになってから、御最期まで。片時も手放されなんだ、数珠じゃ」藩主の声に、深い哀惜がにじんだ。「父の温もりが残る、ただ一つの形見。これを、ずっと肌身離さず持っておった」
藩主は、その数珠をしばし見つめた。そして、意を決したように、鈴へと差し出した。
「縁、と申したな。——やってみよ。まことに、そなたの力が本物なら。父の声を、聞かせてみせよ」
鈴は両手で、その数珠を押し頂いた。
ひんやりとした水晶の珠。布を解いた指先に、それを握りこむ。息を、心の臓の音を、錨のように、深く深く沈めていく。そして、問うた。——先代さま。あなたさまの御最期を、どうかわたしに。
刹那。
ゆっくりと、像が滲み出してきた。
——薄暗い、寝所。床に伏した、初老の武士。日に日に痩せ、衰えていく、その姿。胸を押さえ、苦しげに喘いでいる。傍らには、薬湯の椀。その椀を運んでくる、影。
そして。
枕元に、ひとりの男が座していた。
労るふりをして。じっと、病人の衰えを見守る、その男。先代藩主はもはや、声も出せぬ。指一本、動かせぬ。ただ、その霞む目で見上げていた。——己の寝所に毎日のように訪れ、優しげに容態を尋ねる、その忠臣の顔を。
そして、悟ったのだ。
この男が、わしに毒を。
霞む視界の中。男の、その底知れぬ目だけが、氷のように冷たく笑っていた。
像が結ぶ。鈴は、目を見開いた。視たすべてを、一言一句、声に乗せる。
「先代さまは……毎日、お見舞いに来る、ある人物を見ておられました。床に臥されたまま、声も出せず。けれど、そのお心は、はっきりと叫んでおられた。——この男が、わしに毒を盛った、と」
本堂が、水を打ったように静まりかえった。
「先代さまは、最期のその目で。お見舞いに訪れた、その人の顔を見上げておられました。優しく容態を尋ねながら、その奥で冷たく笑う——」
鈴はゆっくりと、顔を上げた。そして、まっすぐにその人物を指さした。
「——結城式部、あなたの顔を」
時が、止まった。
藩主が愕然と、結城を見た。居並ぶ重臣たちが、いっせいに息をのむ。
そして。結城の面から。
あの、穏やかな慈愛に満ちた忠臣の仮面が。音もなく、ずるりと剥がれ落ちた。
その下から現れたのは。十五年、誰の目をも欺き続けた、底知れぬ虚無の貌だった。
「……ほう」結城は低く呟いた。もはや、隠す気もないのか。その声からは、一切の温度が消えていた。「死人の見た夢まで覗くとは。まこと、忌まわしいお力よ。——御影を根絶やしにしたは、正しかった」
藩主の全身が、わなないた。
「……式部。では、まことに。父上を害したのは——そなたなのか」
結城は答えなかった。ただ、薄く嗤った。それが、何よりの答えだった。




