第二十八話 濡れ衣
久世の庵にたどり着いたのは、その日の夕刻だった。
宗哲の死を聞いた久世は、しばらく目を閉じ、深い沈黙ののちに絞り出した。
「……惜しい御仁を、亡くした。十五年、苦しみ抜いた末に、最期に、武士よりも見事な最期を遂げられたか」
鈴は懐から、油紙の包みを取り出し、囲炉裏端に広げた。
中の覚書には、几帳面な筆で、先代藩主に盛られた毒の名、その量、症状の移り変わり、そして結城に脅された一部始終が、克明に記されていた。動かぬ証拠だった。
「これだけ、揃えば」鈴の声に、力がこもった。「藩主さまに、お見せすれば」
「ことは、そう容易くは運ぶまい」久世の顔は晴れなかった。「証人の宗哲は、もうおらぬ。結城は、この覚書を偽りと言い張るだろう。黒沢の文のときと、同じ手だ。——いや」
久世が言いかけた、そのときだった。
表がにわかに騒がしくなった。複数の足音。そして、馬のいななき。ただならぬ気配に、柊が刀を取って立ち上がる。
戸の外から、厳めしい声が響いた。
「藩の、御用である!この庵に、御影縁なる者が匿われておろう。神妙に、引き渡されよ!」
鈴の心の臓が、凍りついた。藩の、捕り方だ。
久世が、戸を細く開け、応対する。やがて、戻ってきたその顔は、これまでにない険しさに満ちていた。
「……してやられた」久世は低く呻いた。「結城め。先手を、打ちおった」
「どういう、ことですか」鈴はたずねた。
「結城は、藩主さまに、こう奏上したそうだ」久世の声は、苦渋に震えていた。「——御影の血を騙る怪しき娘が、妖しき術を使い、忠臣を陥れんと暗躍しておる。その娘は、口封じのため、隠れ住む老医師・宗哲を焼き殺した、と」
鈴は言葉を失った。
宗哲を殺したのは、結城の手の者だ。それを——その罪まで、鈴になすりつけている。真実を語ろうとした老人の無残な死さえ、結城は、おのれの武器に変えたのだ。
「そればかりか」久世は続けた。「久世もまた、その娘にたぶらかされ、加担しておる、と。——わしの後見の立場すら、これで封じられた。今や、わしらは、藩をたばかる大罪人だ」
座が、凍りついた。
藩主への道は。完全に、閉ざされた。いや、それどころか。今や、藩のすべてが、鈴を捕らえよと動き出している。あの底知れぬ男は、ただ一手で、こちらの足場を根こそぎ奪い去ったのだ。
「……でも」鈴は震える声で言った。けれど、その目は暗くはなかった。「結城がこれほどなりふり構わず動いたということは。それだけ、この覚書を恐れているということ。違いますか」
久世が、はっと鈴を見た。
「追いつめられているのは、わたしたちだけではありません。結城もまた、追いつめられている。だからこそ、こんな強引な手に出た」鈴は、まっすぐに二人を見た。「ならば、あとひと押し。藩主さまのお心に、まことを届けることができれば」
「じゃが、縁さま」久世が苦しげに言った。「肝心の藩主さまに、どうやって近づく。城は固く閉ざされ、そなたには捕縛の手が伸びておるのだぞ」
鈴はしばし考えた。そして、ふとたずねた。
「久世さま。先代の藩主さまのご命日は——いつですか」
久世が、目を見開いた。
「……来月の、十日。先代さまの、十五回忌。藩主さまは菩提寺にて、盛大な法要を営まれるはずだが」
十五回忌。先代藩主が毒に斃れて、ちょうど十五年。
その法要の座にこそ。殺された父の、霊前にこそ。——隠された真実を突きつける、最後の舞台があるのではないか。
鈴の瞳に、静かな決意の火が灯った。
「そこへ、参ります」鈴は言った。「亡き先代さまの、御前へ。——たとえ、捕り方が待ち構えていようとも」




