第二十五話 奪われた声
屋敷を出て、夜道を帰る道すがら、誰も口を開かなかった。
久世の庵に戻ってから、ようやく鈴は、大きく息を吐いた。
「……あの御方は」鈴は、声を震わせた。「わたしが何を知り、何をしようとしているか。すべて、見抜いておられました。これ以上踏み込めば、黒沢と同じだ、と。そのうえで、釘を刺された」
「うむ」久世の顔は、苦かった。「あれは紛れもなく、結城の宣戦布告だ。穏やかに笑いながら、わしらの首に、縄をかけてみせた。——だが、裏を返せば」
久世の目に、光がよぎった。
「結城はそれだけ、そなたを恐れておる。そなたの力がいつか、おのれの罪を暴くと。だからこそ、こうしてわざわざ釘を刺し、飼い慣らそうとしている」
「では、やはり結城が」柊が低く言った。「先代の藩主を……」
「ほぼ間違い、あるまい」久世はうなずいた。「されど、確たる証がない。あの茶室で、縁さまが視たという薬湯の念——あれだけでは、何の力にもならぬ」
鈴は、こぶしを握った。あの、かすかな像。震える手で点てられた、薬湯。苦悶の最期。あれは、きっと——。
「久世さま」鈴は、顔を上げた。「先代の藩主さまが、亡くなられたとき。そのおそばには、どなたがおられたのですか。最期を看取った人が、いるはずです」
久世は、はっと目を見開いた。それから、深い記憶の底を探るように、瞼を閉じた。
「……侍医が、おった」やがて、久世は呟いた。「宗哲という、御藩主さまご寵愛の、お抱え医師だ。先代さまのご最期まで薬を調じ、付ききりで看病しておった」
「その方は、今どちらに」
「それが——おかしいのだ」久世の声が、低くなった。「先代さまが亡くなられて、ほどなく宗哲は、医師を辞した。郷里へ引っ込む、と言うてな。あれほど腕の立つ評判の医師が、忽然と表舞台から姿を消したのだ。……当時は、主君を看取れなんだ責を感じてのことか、と思うていた。だが」
座が、静まった。
「今にして思えば」久世はゆっくりと言った。「宗哲は、見たのではないか。薬を調じる、その手で。御藩主さまの死が、ただの病ではないことを。——そして、それに気づいたゆえに口を塞がれ、藩から葬り去られたのではないか」
鈴の胸が、激しく打った。
侍医・宗哲。先代藩主の死の、まことを知る、ただ一人の生き証人。もし、その人がまだ生きていて。先代さまの最期に触れたものを、何か持っていたなら。——あるいは、その人自身の記憶に刻まれた、真実を。
「その方を、探しましょう」鈴は言った。「宗哲さまに会えれば、きっと」
「気を、つけよ」久世が、声をひそめた。「結城も、馬鹿ではない。生き証人の存在を、忘れておるはずがない。宗哲がまだ生きておるなら——結城の監視の目も、必ずその者に注がれておる」
そのとき。
ふと、鈴は庭の闇に、目をやった。
何か、気配があった。むき出しの指を、縁側の板に当てる。錨を下ろし、問う。——今、この庵をうかがっている者は。
冷たい念が、答えた。木立の陰にひそむ、ふたつの目。その者の心にあるのは——「結城さまへ、ご報告を。娘はまだ、何か嗅ぎ回る様子」。
鈴の全身が、冷えた。
「……見張られて、います」鈴は囁いた。「もう、結城の目が。この庵にも」
茶室を出たときには、すでに結城の網の中だったのだ。一挙手一投足が、あの底知れぬ男に筒抜けになっている。
久世の表情が、引き締まった。
「ならば、なおさら迂闊には動けぬ。——だが」老武士は、鈴を見た。「正面から、ではない。あの男の目を欺く手を、考えねばなるまいな」
夜風が、木立を騒がせる。そのざわめきの奥で。見えぬ監視の目が、静かにこちらを見つめていた。
巨大な蜘蛛の巣の真ん中で。小さな娘は、それでも前へ進む道を探していた。




