第二十四話 結城邸にて
使者に従い、鈴が駕籠に乗ろうとすると、久世が静かに進み出た。
「お招きは、ありがたい。されど、御影の縁さまはまだ、御身の安全も定まらぬ身。後見を買って出たこの久世、お供せぬわけにはまいらぬ」
使者は、わずかにためらった。だが、元御目付の名と、その毅然とした態度に、押し返す術を持たなかった。
「……承知、いたしました。結城さまも、お止めはなさいますまい」
こうして、鈴は久世と柊を伴って、結城の屋敷へ向かった。
筆頭家老の屋敷は、城下の一角にひっそりと構えていた。豪奢ではない。むしろ、清廉なその人柄を映したような、簡素な佇まい。だが、その簡素さがかえって、底知れぬものを感じさせた。
通されたのは、奥の茶室だった。
炉に、湯がたぎっている。結城は自ら、茶を点てていた。客を、最上の格で迎える。それは、敬意の証であると同時に——この場のすべてを、おのれの流儀で支配するという、無言の宣言でもあった。
「夜分にお呼び立てして、申し訳ない」結城は柔らかく、微笑んだ。「どうしても、ゆるりとお話ししたくてな。さ、こちらへ」
鈴は、勧められるまま座についた。柊と久世が、その後ろに控える。
結城の、皺の刻まれた手が、茶筅を静かに操る。その所作は、流れるように美しかった。やがて、点てられた一碗が鈴の前に差し出された。
「御影のお家は、案ずるに及びませぬ」結城は穏やかに、語りはじめた。「再興の儀、わたくしが責を持って進めております。そなたさまには、しかるべきお住まいも、ご用意いたしましょう。——何ひとつ、不自由はおかけせぬ」
「……痛み入ります」鈴は、頭を下げた。
そして、差し出された茶碗へ、そっと手を伸ばす。布越しではない。むき出しの指が、釉薬のなめらかな肌に触れた。
その瞬間。
ひやりと、冷たいものが指先を撫でた。
——古い、茶碗だった。幾人もの手を経てきた。だが、その念の、奥の奥。ごく、かすかに。誰かがこの碗で、薬湯を点てている。震える手で。そして、それを口にした者の、苦悶の最期が——
像は、すぐに霧散した。あまりに薄く、あまりに遠い。けれど、鈴の背筋を、氷が伝った。
顔を上げると。
結城が、じっと鈴を見ていた。穏やかな微笑みを、たたえたまま。その目の奥だけが、笑っていなかった。
「……縁さま」結城の声が、ふいに低くなった。「噂は、かねがね。物に宿った人の想いを、読み解かれるとか。黒沢の罪を御前で暴かれたのも、その稀有なお力ゆえと聞き及んでおります」
鈴の心の臓が、跳ねた。この男は、鈴の力をすべて知った上で、この場に招いたのだ。
「まこと、おそろしいようなお力よ」結城は、ほうと息をついた。「されど——縁さま。お力というものは、時に持ち主を滅ぼします」
茶室の空気が、張りつめた。
「黒沢は、おのれの罪を暴かれ、牢の中で自ら命を絶ちました。哀れなことよ」結城の声は、あくまで穏やかだった。「過ぎたことをほじくり返せば、思わぬ災いを招くもの。御影のお家は、せっかく再び芽吹こうとしておる。その若い芽を——みすみす枯らすような愚は、犯されますな」
それは、いたわりの言葉の形をしていた。けれど、その実は。
刃だった。
——余計な詮索をすれば、黒沢と同じ末路をたどることになるぞ。
結城は、何ひとつ明かさず、何ひとつ脅さず。ただ、微笑みながら、鈴の首筋に、見えぬ刃を突きつけていた。
鈴は膝の上で、こぶしを握りしめた。怖い。この男は、底が見えない。けれど。
ここで目を伏せれば。御影はまた、この男の掌の中で飼い殺しにされる。父も、母も、登世も、玄斎も——浮かばれない。
鈴はゆっくりと、顔を上げた。そして、結城の底知れぬ目を、まっすぐに見返した。
「ご忠告、ありがたく頂戴いたします」鈴の声は、震えていた。けれど、退いてはいなかった。「ですが、結城さま。わたしの力は、過ぎたことをほじくり返すためではございません。——ただ、奪われたものたちの声なき声を聞くため。それだけにございます」
結城の、微笑みが。
ほんのわずかに、深くなった。まるで、面白いものを見つけた、というように。
「……ほう」
炉の湯が、しゅんと鳴った。
老獪な家老と、十五の娘。穏やかな茶室で、二人は声もなく向かい合っていた。
戦は、もう始まっていた。




