第二十話 それでも前へ
時が、止まったようだった。
うぬの母を斬り捨てた、張本人。——黒沢の言葉が、鈴の中でこだまする。隣に立つ、柊。命がけで、自分をここまで守ってくれた、その人が。あの夜、母を。
鈴の手から、力が抜けかけた。
「縁さま……」柊の声は、引き裂かれていた。刀を握る手が、震えている。「……まことだ。おれは……あの夜、奥の間で逃げ惑う、御方を……顔も、わからぬまま……」
柊の顔は、蒼白だった。十五年、隠し通した最も深い罪。それが、最も知られたくなかった人の前で、最も残酷なかたちで暴かれた。柊はもう、鈴の顔を見ることができなかった。
黒沢が、嗤っていた。
血走った目で、鈴の崩れるのを待っている。この娘が絶望し、頼みの男に背を向ける、その隙に——この修羅場を逃げおおせるつもりなのだ。母の死さえ、おのれの保身の道具にして。
——その嗤いを見た瞬間だった。
鈴の中で、揺らいだ何かがすうっと静まった。
そうだ。誰が母を殺したのか。
刀を握った手では、ない。その手に刀を握らせ、罪も知らぬ少年を、修羅へと駆り立てた者。御影を一族もろとも、火と血に沈めた者。佐倉を斬った者。——すべての糸をたぐっていけば、その先にいるのは。
鈴は顔を上げた。涙を、湛えたまま。けれど、その目はまっすぐに、黒沢を射ていた。
「……黒沢、監物」
鈴の声は、震えていた。けれど、折れてはいなかった。
「あなたです。母を殺したのも、父を殺したのも、佐倉どのを殺したのも、御影のすべてを奪ったのも。——柊さまは、あなたが刀を持たせた、十五の少年だった。何も知らぬまま、あなたに使われただけ」
黒沢の嗤いが、強ばった。
「あなたは今、母の死さえ使って、わたしと柊さまを引き裂こうとした。逃げるために。——でも、わたしはあなたの思いどおりには、なりません」
鈴は柊の方へ、一歩近づいた。震える、その背に。
「柊さま。あなたが母にしたことは……消えません。わたしも今は、どう受け止めればいいかわからない」鈴の声が、涙で滲んだ。「でも、これだけはわかります。あなたを修羅にしたのは、あなた自身ではない。そして、あなたは十五年、その罪を抱えて……母が命がけで逃がした、わたしを守り抜いてくれた」
柊が、はじかれたように鈴を見た。
「だから、顔を上げてください。——今は、共に戦って。この、ほんとうの仇を討つために」
柊の目から、涙があふれた。だが、その涙の奥に、消えかけていた武士の光が、再び燃え上がった。
「……承知」
その刹那。
「邪魔だ、退けっ」
黒沢が鈴めがけて、刃を振り下ろした。逃げ場を失った男の、捨て身の一撃。
だが、その刃が鈴に届く、寸前。
柊の刀が、間に割って入った。火花。柊は黒沢の刃を力任せに撥ね上げ、返す峰で、その肩をしたたかに打ち据えた。
黒沢が悲鳴を上げて、地に転がる。
「御家老の謀反である!藩主さまの、御前であるぞ!召し捕れい!」
久世の、雷のような大音声が響き渡った。元御目付の号令に、我に返った供の侍たちが、いっせいに黒沢の手の者へと斬りかかる。形勢は、瞬く間に逆転した。
ただ一人、氷室だけがなお、刃を引かなかった。
「柊数馬」氷室が刀を構え、鈴へと迫る。「主命だ。あの娘だけは——」
「させぬ」
柊がその前に、立ちふさがった。二つの影が交錯する。一合、二合。三合目で、柊の刃が氷室の刀を跳ね飛ばし、その胴を深く薙いだ。
氷室がよろめき、膝をつく。その酷薄な目が、はじめて驚きに見開かれた。
「……御影の力に、人の情け……。おれの、負けか」
そう呟いて、氷室は地に伏した。
すべてが、終わった。
縄を打たれた黒沢が、引き立てられていく。その顔はもはや、何の力も持たぬ、ただの罪人のものだった。
藩主がゆっくりと、鈴の前に歩み寄った。
「縁、と申したな。——御影の家に、わしは取り返しのつかぬ過ちを犯した。黒沢の言を信じ、あたら忠臣の家を見捨てた」藩主は、深く頭を垂れた。「許せとは、言わぬ。だが必ず、佐倉の死を検め、黒沢の罪をあまねく明らかにする。御影の名は、わしが必ず雪ぐ」
鈴の頬を、涙が伝った。
——登世婆さま。玄斎どの。父さま。母さま。
ずっと、自分のために命を落としていった、人々。その無念が、ようやく晴らされる。鈴は、空を仰いだ。十五年、忌み子と蔑まれた娘は、今、まっすぐ天を見上げていた。
戦いのあと、菩提寺の境内に静けさが戻っていた。
柊は少し離れて、立っていた。鈴に近づくことが、できずにいる。
鈴は、その傍らへ歩み寄った。
「柊さま」
「……縁さま。おれは」柊が苦しげに、口を開く。「おれは、あなたの母君を……どんな罰も、受ける覚悟だ。この首を、刎ねられても」
「いりません、そんなもの」
鈴は、静かに首を振った。
「わたしは母を知りません。顔も、声も。——でも、あなたのことは、知っています。この旅で、ずっと。優しくて、不器用で、ひとりで重い荷を背負ってきた人」
鈴の目に、また涙がにじんだ。
「母のことは……正直、まだ胸が痛みます。簡単に、忘れることも許すことも、できないと思う。きっと、長い時間がかかる」鈴は、まっすぐに柊を見た。「でも、わたしは、あなたと共にいたい。憎しみではなく。——その痛みも、一緒に背負っていけるように」
柊は、言葉を失っていた。やがて、その大きな体が震え、深く深く、頭を垂れた。声を殺した嗚咽が、漏れる。
鈴はその肩に、そっと手を置いた。かつて、念に飲まれた自分の背を、登世がさすってくれたように。
風が、境内の若葉を揺らしていく。
長く暗かった、御影の物語に。ようやく、ひとすじの光が差し込んでいた。




