第十九話 刃の証言
「殿」黒沢の声に、はじめて硬さが混じった。「お戯れを。武士の魂たる脇差を、賤しき娘の手に渡せと仰せられますか」
「渡してやれ、黒沢」藩主の声は静かだった。だが、その目には、もう抜き差しならぬ光が宿っていた。「やましきことが、なければ。検められて、困ることもあるまい」
黒沢の頬が、ぴくりと引きつった。
ここで拒めば、それこそ疑いを認めるも同じ。長いためらいのあと、黒沢は腰の脇差を、鞘ごと抜いた。そして、忌々しげにそれを、鈴の前へ投げて寄越した。
鈴は、その脇差を両手で拾い上げた。
布を、解く。むき出しの指を、冷たい鞘へ添える。息を、心の臓の音を、錨のように、深く深く下ろしていく。そして、問うた。——この刃が奪った命を、わたしに見せてください。
刹那。
夥しい念が奔流となって、鈴に流れ込んできた。
けれど、鈴はもう飲まれなかった。激流の中に、ただ一人立っている。そして、ひとつの、最も古く濃い念を、たぐり寄せた。
——薄暗い、書院。一人の侍が、書き物をしている。穏やかな、初老の男。背後の襖が、音もなく開く。振り向いたその男の顔に、驚きと、そして深い悲しみがよぎる。
「黒沢、どの……まさか、あなたが」
男は抗わなかった。ただ、信じられぬものを見る目で近づく影を見上げた。白刃がひらめく。男の胸を、刃が貫いた。崩れ落ちながら、男は最後に呟いた。
——殿に……御影の、ご当主に……お伝え、せねば……
鈴は、かっと目を見開いた。視たものを、そのまま声に乗せる。
「佐倉どの……あなたが斬った忠臣の名は、佐倉。書院で書き物をしている、その背を、あなたは襖の陰から襲った」
鈴の声が、しんと静まった山門前に響き渡る。
「佐倉どのは抗いもせず、ただ悲しい目で、あなたを見上げた。そして、こと切れる間際、こう言い遺しました。——殿に。御影のご当主に、お伝えせねばと」
藩主の顔から、血の気が引いていた。
「……佐倉、だと」藩主が呻いた。「十五年前、急な病で死んだはずの……御影に出入りしておった、あの佐倉か」
鈴は脇差を握りしめたまま、藩主を見上げた。
「病では、ありません。この黒沢さまの脇差が——その胸を、貫いたのです。御影が、黒沢さまの裏切りに気づいたから。それを、闇に葬るために、御影は一族もろとも滅ぼされたのです」
長い沈黙が、あった。
藩主の目がゆっくりと、黒沢へと向けられた。その目には、もう迷いはなかった。あるのは、深い怒りと、失望だけだった。
「黒沢」藩主の声は、低く、震えていた。「この娘の申すこと、佐倉の最期の言葉、その仔細——騙りに語れるものではない。……うぬは、わしを欺いておったのか」
黒沢の、整った顔が。
ぐにゃりと、崩れた。
穏やかな忠臣の仮面が剥がれ落ち、その下から、追いつめられた獣の醜い形相が現れた。
「……おのれ、御影の、化け物が」
黒沢が吼えた。そして、声を張り上げる。
「であえ、であえ!曲者だ!この者ども、討ち取れい!」
その合図を、待っていたかのように。
参詣の人垣のあちこちから、覆面の刺客たちが抜刀して躍り出た。氷室だ。氷室が、罠の備えに伏せていた手の者を、一斉に放ったのだ。
辺りはたちまち、悲鳴と怒号の渦と化した。
「縁さま、お下がりを!」柊が刀を抜き、鈴の前に立ちふさがる。
だが、黒沢はもはや、正気ではなかった。逃げ場を失い、血走った目で、黒沢は鈴を——いや、その隣の柊を指さした。
そして、勝ち誇ったように最後の刃を抜いた。
「小娘。うぬは、知るまい。——うぬの隣に立つ、その男こそ」
黒沢の口が、裂けるように嗤った。
「あの夜、うぬの母を、その手で斬り捨てた張本人よ」
鈴の、世界が。
その一言で、音を失った。




