第3話 家族
桐ヶ谷駅から自宅までは徒歩で十二分。
十年前と何ひとつ変わっていなかった。
駅前のロータリーのケヤキ。信号待ちで自転車を支える親子。コンビニの自動ドアの開閉音。クリーニング屋の店先に出された白いシャツの列。
全部、十年前のままだ。
いや、当たり前か。十年前は、今日だ。
一人で笑いそうになってこらえた。
通行人に怪訝な顔をされるわけにはいかない。
自宅の玄関に立つ。
表札の「藤宮」を見上げた。墨で書かれた父の字。十年、これを目にしなかった。
鍵を差し込む。回す。ドアを引く。
「ただいま」
自分の声が、思っていたよりもふつうの高校生の声で出てくれた。
「おかえり。早かったじゃない」
廊下の奥から、母の声がした。
心臓が勝手に跳ねた。
十年、聞かなかった声だ。葬式の時にも、もう二度と聞けないと戦場の夜に何度も自分に言い聞かせていた声だ。
喉が絞られる。
だが、それを表に出してはいけない。
「ああ、今日は委員会なくて」
「そう。手洗ってきて。陽菜も帰ってるから」
リビングのドアを開けた。
妹がローテーブルでスマホを覗き込みながら、座椅子に半分崩れた姿勢で寝そべっていた。
「お兄、おかえりー」
顔も上げない。
「ただいま、陽菜」
「……なんか、声、変じゃない?」
妹の藤宮陽菜が、初めて顔を上げた。
中学三年。十四歳。前髪を黒いピンで留めて、制服のリボンを律儀に結んだままにしている。
こんな顔をしていたか。
十年、見ていない顔だ。
涙が出そうになって、慌てて鞄を持ち直すフリで目を伏せた。
「ぼーっとしてるだけ。テスト前」
「ふーん」
興味なさそうにスマホに戻った。
ありがたかった。
洗面所で手を洗う。
鏡は見なかった。今、自分の顔を見たら何かが崩れる気がした。
夕方。父が定時より少し早く帰宅した。出張続きのこの時期にしては珍しい、と母が言った。
食卓には、味噌汁と鯖の塩焼きと、ほうれん草の胡麻和えが並んだ。
自分の前に出された鯖が、皮側を下にひっくり返してあった。
——皮が苦手だった、十年前の俺のため。
十年経って、俺はもう皮の方が好きになっていた。だが、そんなことを、誰も知らない。
父は技術職特有の口数の少なさで、新聞のテレビ欄を見ながら味噌汁をすすった。
「お父さん、来週からまた名古屋?」
「ああ」
「気をつけてね」
「ああ」
会話が二音節で終わる、その温度。
——平穏。
これだ。これを、十年欲しがっていた。
そう思った瞬間、妹がスマホを傾けながら、何の気なしに言った。
「ねえ、お兄。最近の神隠し、知ってる?」
箸の動きが、ほんの一瞬だけ止まった。
母が眉を寄せる。
「陽菜、ご飯の時にそんな話やめなさい」
「だってさ、今日もまた一人消えたんだって。桐ヶ谷の隣の駅で、二十歳の女の人」
顔を上げずに、味噌汁の椀を口に運ぶ。
「……ああ、ニュースで見た」
自分の声が、思いのほか落ち着いて出ていた。十年、戦場で生き延びた声だ。
「怖いよねー。同じ沿線でもう四人目だよ?」
「お兄ちゃんは関係ないから、変な道は通らないように」
「夜遅くまで出歩かないでね」
母と父が、別々の角度から心配を寄越してくる。
普通の家庭の、普通の心配だ。
心の中でもう一度、誓った。
平穏に、生きる。




