第2話 六時間目、何も起きなかった
——昨日、教室の窓の外で空気が歪んだ。十年戦場で見続けた、"あちら側"の歪み。
なのに今日は、何も起きていない。
数学の教科書を開いていた。目は文字を追っていない。視界の隅では、教室の時計だけが進んでいた。
十時四十分。十一時十六分。正午。
召喚予定時刻まで、あと四時間。
知っている。知っているのに、心臓は十年前のあの瞬間と同じ速さで脈を打っていた。
午後二時、三十五分。六時間目の数学、終了五分前——何も、起きない。
教室の窓から差し込む四月の光は、昨日と同じ角度で机の木目を照らしていた。空気の歪みも、魔素の漏れもない。
黒板を背にした山田教諭が、最後の例題を解きながら欠伸を噛み殺していた。
終業のチャイムが鳴った。
「藤宮、お前ほんとに大丈夫か」
隣の坂田が、相変わらず心配そうにこっちを見た。
「ああ。すまん、ちょっと考え事してた」
「考え事って、お前、テスト前にしては顔が真剣すぎだろ」
笑いながら席を立つ坂田に、笑顔だけ返した。
表情筋の動かし方は、十年戦場で覚えた。
教科書を鞄に詰めながら、思考だけは別の場所にあった。
召喚は、起きなかった。
——では今朝、窓の外で見たあの"あちら側"の歪みは、何だ。
結論は保留。手元の情報がまだ少なすぎる。
視線をほんの一瞬だけ、窓際の最後列に走らせた。
文庫本を閉じて、栞を挟むところだった。黒髪のショートカット。骨ばった指が、丁寧に栞の位置を整える。
凛。
いや、まだ彼女のことをその名で呼ぶ権利は、俺にはない。苗字すら知らないのだから。
視線を逸らした。
こちらから声をかけるのはまだ早い。
鞄を肩に掛けて、教室を出た。




