第1話 死と、巻き戻し
——チャイムの音で、目が覚めた。
「……は?」
顔を上げる。
まず、匂いだった。
チョークの粉。四月の校庭から流れ込んでくる土埃の匂い。誰かの弁当箱に残った卵焼きの脂。蛍光灯がジー、と低く鳴っていた。
制服のシャツが、肩の縫い目で軽く擦れた。
十年、嗅がなかった匂いだった。
十年、聞かなかった音だった。
木目の机。開きっぱなしの英語の教科書。窓の外で揺れる、四月の桜。
教室だった。
まぎれもなく、現代日本の、ごく普通の高校の、ごく普通の教室。
隣の席の男子が、欠伸を噛み殺しながら俺の方を見て言った。
「藤宮、お前またうたた寝かよ。当てられるぞ」
藤宮。
そうだ。藤宮 颯。それは俺の名前だった。
十年前まで、俺の名前だった。
手を、見た。
五体、満足。両腕、両手、指の十本まで揃っている。傷ひとつない、若い、痩せた手。
鏡があれば顔も確認したかったが、その必要はなかった。
これは、十八歳の俺の体だ。
「……夢か」
思わず、口に出た。
そうとしか、思えなかった。十年の戦場が、魔王城が、仲間たちの死が、全部、悪い夢だ。
そう、思いたかった。
だから、確かめずにはいられなかった。
机の下で、左手の指先に、ほんの微量の魔力を集める。
蝋燭の火ほど。子供の悪戯ほどの、ごくごく小さな、火の魔力。
指先に、小さな炎が灯った。音はしなかった。
指の腹に、ちりちりとした熱。
体の奥から、魔素が静脈を通って指先に流れていく感触。
十年戦場で扱い続けた、あの感触と、寸分違わなかった。
教室の喧騒の中、誰にも気付かれず、それは確かにそこにあった。
夢じゃ、なかった。
炎を消す。指先の温度だけが、現実として残った。
戻ってきた、のか。
いや、戻された、のか。
教室の空気が、急に薄くなった。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。
十年だ。十年、戦場で生き延びてきた。これくらいで取り乱すような、半端な精神はもう持っていない。
ゆっくり、深く呼吸をする。
一度、二度。
そして、視線を、ただ、ゆっくり横にずらした。
その瞬間、息が、止まった。
窓際の、いちばん後ろの席。
文庫本を読んでいる、ひとりの女子生徒。
ショートカットの黒髪。健康的に焼けた肌。意思の強そうな、やや吊り上がった瞳。
制服のリボンを少しだけ緩めた、ボーイッシュな着こなし。
知っていた。
知っているどころではない。
その横顔を、十年見続けた。戦場で背中を預け、酒場で笑い合い、最後には俺を庇って斬り伏せられた、剣の戦友。
凛。
まさか、と思った。
だが、横顔の角度、肩の落とし方、本を持つ指の癖まで、十年戦った戦友のそれと同じだった。
苗字を、俺は知らない。
十年前の俺は、彼女にろくに話しかけたこともなかった。
文庫本のページをめくる音が、やけにはっきりと聞こえた。
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ぱさり、と、ページの音がもう一度した。
隣の席の男子が、心配そうに俺の肩を叩いてきた。
「藤宮、本当に大丈夫か。顔、真っ青だぞ」
視線をはぎ取るように、俺は彼の方を向いた。
坂田 翔太。十年前、隣の席にいた男だ。
いや、十年前ではない。今、ここ、にいる男だ。
思考が、まだ追いつかない。
「……ああ。寝不足、なだけだ」
俺の声が、思っていた以上に、低く落ち着いていた。
慌てて、もう少し高校生らしいトーンに、意識して引き上げる。
「テスト前のな。ちょっと、頑張りすぎた」
「お前にしては珍しいな。優等生のくせに、こんな時期にうたた寝かよ」
坂田が笑った。あまりにも平和な笑い方だった。
「次の数学、また当てられるぞ。山田、寝てる奴を狙うからな」
「……ああ、覚えてる」
「覚えてる、って。お前、本当に大丈夫か?」
坂田は俺の額に、手の甲を当ててきた。熱はない、と確認するように。
十年戦場で生き死にを共にした奴の中にも、こんな顔をする男が、いた。
——考えるな。取り乱したまま判断するな。それは戦場の鉄則だ。
息を吐く。
鎧の隙間を狙う、あの呼吸で。
鼓動が、いつもの速さに戻る。
まず、状況を整理しろ。
机の上のノートに目を落とす。日付の欄。
四月、十日。火曜日。
数字を見た瞬間、頭の芯が、冷えた。
忘れるはずのない日付だ。
俺が、異世界に召喚された日。
まさに、今日。
教室の時計を見上げる。
午前十時、四十分。
召喚されたのは、確か、六時間目の最中だった。
数学の授業ごと、教室ごと、まるごと"あちら側"に呼ばれた。
自分だけではない。あの日、ここにいた全員が、放り込まれた。
戻ってこれたのは、最終的に、俺、一人だった。
あと、約四時間。
腹の底で、十年前の怒りが、まだ生きていた。
——逃げるべきか。
だが、逃げて、何になる。
俺は、すでに十年分を、知っている。
視線を、もう一度だけ、窓際に走らせた。
凛が、文庫本から顔を上げていた。
教室の喧騒の中、不意に、その瞳が、俺と合った。
「……」
「……」
彼女は、軽く首を傾げた。眉が、ほんの少し寄った。
知らないはずの誰かを、思い出そうとするような目だった。
視線が、逸らされた。
気付かれたわけではない。十年先の話を、彼女が覚えているはずがない。
だが、首を傾げる角度までもが、十年後の戦友と、同じだった。
守る。
折れるはずのない覚悟が、若い体の奥で、もう一度、組み直された。
もう、誰も、戦場には、置いていかない。
——その時、窓の外に目が行った。
桜の向こうで、空気が一瞬だけ、歪んだ。陽炎ではない。
あれは、こちら側のものじゃない。
十年間、戦場で嫌というほど見てきた、"あちら側"の気配だった。
——気配は、ひとつじゃない。
"あちら側"の本体ではない。"あちら側"に染まりかけている、誰か、の気配だった。
異世界で十年戦って巻き戻された俺の、二度目の朝は、こういう朝だった。
そして、剣を取る理由が、目の前にも、窓の向こうにも、いた。




