第96話:順位発表前夜と、お守りの約束
「……なぁ、奏羽。そろそろ寝ようぜ。明日はいよいよ結果発表なんだから」
ピクニックの休日から数日が経ち、明日に期末テストの順位発表を控えた夜。
俺は客間のベッドの縁に腰掛け、毛布にくるまっている奏羽の背中を、一定のリズムでトントンと優しく叩き続けていた。
「……うん、わかってる。でも……」
奏羽は俺のパジャマの袖をぎゅっと握りしめ、不安そうに上目遣いで俺を見上げてくる。
不眠症はすっかり改善したはずだったが、今日ばかりは「結果次第で海外転校」という凪瀬夫人との約束の重圧が、彼女の目を冴えさせてしまっていた。
「……もし、わたしが冴木くんに負けてたら……。もし、湊くんが十位に入れなかったら……」
「奏羽」
俺は背中を叩く手を止め、彼女の頭をそっと撫でた。
「あのピクニックの時、言っただろ? 俺はやれるだけのことはやったって。……お前も、特進クラスの連中よりもずっと勉強してたじゃないか。自分の努力を信じろよ」
「……湊くん」
「それに」俺は少しだけ声を低くし、彼女の耳元で囁いた。
「もしダメだったとしても、俺はお前を一人で海外なんかにやらない。……お前の親父さんから『一生面倒見る覚悟があるか』って聞かれた時、俺は『はい』って答えたんだ。どんな手段を使ってでも、お前の隣は俺が死守する」
俺の言葉に、奏羽の瞳からポロリと一筋の涙がこぼれ落ちた。
「……湊くんのバカ。そんなこと言われたら、安心して泣いちゃうよ……」
彼女は俺の胸に顔を押し付け、小さくすんすんと鼻をすすった。
「泣いてもいいさ。……でも、明日は笑顔で、一緒に結果を見に行こうな。俺たちの努力が、どれだけのものだったか証明するために」
「うんっ……」
奏羽は大きく頷き、俺の袖を握る手にさらに力を込めた。
「……湊くん。今日も、お話、読んでくれる……?」
「ああ。お前が眠るまで、ずっと読んでてやる」
俺は彼女の頭を撫でながら、いつものように、低く穏やかなトーンで宮沢賢治の童話を諳んじ始めた。
彼女の呼吸が、少しずつ深く、規則正しいものへと変わっていく。
窓の外では、冷たい冬の風が吹いていたが、俺の腕の中だけは、どんな嵐にも乱されない絶対的な安らぎに満ちていた。
* * *
翌朝。
俺と奏羽は、いつも通りお揃いのマフラーを巻いてマンションを出た。
翠は「結果が出たらすぐにメッセージ送ってね!」と、エプロン姿で送り出してくれた。
学園の正門をくぐると、周囲の空気は普段の朝とは明らかに違っていた。
一階の昇降口横にある大きな掲示板の前には、すでに黒山の人だかりができている。
「……湊くん。手、繋いでもいい?」
隣に立つ奏羽が、俺の右手を両手でぎゅっと包み込むように握りしめてきた。
彼女の手は氷のように冷たく、微かに震えている。
「ああ。……俺も、少し震えてるかもしれない」
俺は彼女の冷たい手を、安心させるように強く握り返した。
そして、左手をズボンのポケットに忍ばせ、あの「紺色のシュシュ」にそっと触れた。
俺たちの、最高のお守り。
(……頼む。俺たちの夏休みからの全てを、ここに……!)
俺たちは意を決して、人混みを掻き分け、掲示板の最前列へと進み出た。
騒然とする生徒たちの声が、遠くで聞こえるような気がした。
俺の視界には、掲示板の白い紙と、黒々と印字された名前と点数しか入ってこない。
まずは、一番上の「第一位」の欄。
奏羽が、小さく息を呑む音が聞こえた。
『第一位 2年A組(生徒会長) 凪瀬 奏羽 総合 499点』
「……っ!!」
奏羽がトップの座を、死守した。
そして、そのすぐ下。
『第二位 特進Sクラス 冴木 洵 総合 498点』
わずか一点差。
中間テストの時の意趣返しをするかのように、奏羽が冴木を一点差でねじ伏せたのだ。
「奏羽……っ、お前、やったな! トップ死守だ!」
「湊くん……! わたし、勝ったよ……っ!」
奏羽は繋いでいた手を離し、俺の首に腕を回して泣きそうになりながら抱きついてきた。
周囲の生徒たちが「おおっ、会長が冴木を抑えた!」「すげぇ……」とどよめく中、俺は彼女の背中を強く抱きしめ返した。
だが、俺たちの戦いはまだ終わっていない。
もう一つの、最大の壁。
俺は奏羽をそっと引き剥がし、再び掲示板へと視線を向けた。
特進Sクラスのバケモノたちの名前が連なる、上位のランキング。
第五位、六位、七位……。
俺の心臓が、早鐘のように打ち鳴らされる。
第八位……。
第九位……。
そして。
『第十位 特進Sクラス 〇〇 〇〇 総合 475点』
「…………え?」
俺の口から、乾いた声が漏れた。
十位の欄に、俺の名前はない。
「……嘘だろ」
慌ててその下を見る。
『第十一位 2年C組 風森 湊 総合 474点』
……十一位。
十位との差は、わずか一点。
「……湊、くん……」
奏羽が、俺の制服の袖をぎゅっと握りしめた。
彼女の顔から、さっきまでの歓喜の色が完全に抜け落ちていた。
あと一点。
俺の夏休みからの全てを懸けた努力は、あの「特進クラスの壁」の前に、わずか一点差で弾き返されたのだ。
「——残念でしたね。所詮、凡人の努力などその程度のものです」
背後から、氷のように冷たい声が響いた。
振り返ると、そこには銀縁眼鏡を押し上げながら、冷笑を浮かべる冴木洵の姿があった。
「冴木……」
「おめでとうございます、凪瀬会長。私に一点差で勝利したことは賞賛しましょう。……ですが、貴女の『愛の力』とやらは、彼を十位以内に引き上げることはできなかったようですね」
冴木は、俺たちを見下すように言い放った。
「これで、凪瀬夫人との条件は不成立。……貴女は海外へ送られ、風森くんはただの凡人に戻る。……結局、孤独な天才である私の前からは、全てのノイズが消え去るというわけです」
その言葉は、俺たちの努力と絆を根底から否定する、残酷な宣告だった。
「……違う」
俺は、握りしめた拳を震わせながら、冴木を睨みつけた。
だが、反論する言葉が見つからない。十一位という結果は、紛れもない現実なのだ。
「……湊くん」
その時、奏羽が俺の前に立ちふさがり、両手を広げて冴木と俺の間に入った。
「奏羽……?」
彼女は振り返らず、真っ直ぐに冴木を見据えた。
その瞳には、かつてのプレッシャーに怯えていた少女の面影はなく、俺という最強の盾を手に入れた、気高き女王の輝きがあった。
「……わたしは、絶対に海外なんか行かない。……湊くんが十位に入れなかったなら、わたしが湊くんの分まで、何度でもお母様に頭を下げる。……わたしは、絶対に湊くんの隣を離れない!」
全校生徒が見守る掲示板の前で。
俺たちの、最後の反逆が始まろうとしていた。




