第93話:テスト最終日の朝と、最高の「お守り」
期末テスト最終日の朝。
俺が目を覚ますと、すでにキッチンからはトーストの焼ける匂いと、卵を炒める音が聞こえていた。
「……ん?」
俺がベッドを抜け出してリビングへ向かうと、そこにはエプロン姿の妹・翠と、その横で真剣な顔をして卵焼き器を握っている奏羽の姿があった。
「あ、奏羽さん! そこでもう一回巻いて! そうそう、上手!」
「う、うんっ! ……あっ、ちょっと崩れちゃったかも……」
翠のスパルタ(?)指導の下、奏羽が一生懸命に卵焼きを作っている。
あの目玉焼きすら真っ黒焦げにしていた彼女が、今や見事なきつね色の卵焼きを完成させようとしていた。
「……おはよう。二人で何作ってんだ?」
俺が声をかけると、奏羽はビクッと肩を震わせ、少しだけ誇らしげに俺を振り返った。
「湊くん、おはよう! あのね、翠ちゃんに教えてもらって、お弁当のおかず作ったの!」
「お弁当? 今日はテスト最終日だから、午前中で終わるだろ?」
俺が首を傾げると、奏羽は「えへへ」と笑い、タッパーに入ったお弁当を指差した。
「これは、テストが終わった今日の午後に食べる『ご褒美』だよ。……今日は、午後から少しだけ息抜きしようって、零さんが言ってくれたから」
「そうそう。私も今日は用事がないから、三人でお昼ご飯にピクニックでもしようと思ってさ」
翠がウインクをしながら、サラダを盛り付けている。
どうやら、三日間に及ぶテストのプレッシャーを和らげるために、二人が結託して今日の午後のサプライズを用意してくれていたらしい。
「……ありがとな、二人とも。……よし、じゃあ今日のテストも気合入れていくか!」
俺が顔を洗いに向かおうとすると、奏羽が小走りで俺の前に立ちふさがった。
「待って、湊くん」
奏羽は、少しだけ照れくさそうに自分の学生鞄から「あるもの」を取り出した。
「これ……わたしからのお守り」
それは、以前俺が彼女に手首に巻いてあげた、あの「紺色のシュシュ」だった。
中間テストの時、冴木に盗まれそうになり、俺が取り返した彼女の命綱。
「これ、俺が持ってていいのか? お前の『お守り』だろ?」
「うん。……でも、今のわたしには、これよりもっと強いお守りがあるから」
奏羽は、俺の左手にそっと自分の右手を重ねた。
そして、あの全校集会で見せたような、凛とした、けれど俺に向ける時だけの極上の笑顔を見せた。
「……湊くんが、ずっと隣で頑張ってくれてたこと。それが、わたしの最強のお守りだから。……だから今日の最後のテストは、これを湊くんに持っていてほしいの」
俺は、彼女の温もりが残るシュシュをそっと受け取った。
それを自分の制服のズボンのポケットに忍ばせると、不思議と、これまで積み上げてきたプレッシャーがスッと消えていくのがわかった。
「……ありがとう、奏羽。絶対にお前の期待に応えてみせる」
「うんっ! 湊くんなら、絶対に大丈夫!」
「……はいはい、ごちそうさま。朝から熱烈なことで。……ほら、早く食べないと遅刻するよ!」
翠の呆れたような、けれど温かいツッコミに急かされながら、俺たちは朝食の席に着いた。
俺の左腕には、今日も奏羽の右肩がピタリと密着している。
俺たちの、運命を懸けた期末テスト最終日が、最高のスタートダッシュと共に幕を開けた。
* * *
**【第94話:期末テスト終了と、お姫様の奇襲】**
「……そこまで。解答用紙を後ろから前に回してください」
三日間にわたる期末テストの最終日、最後の科目である現代文の終了を告げるチャイムが鳴り響いた。
俺はシャーペンを置き、大きく、深く息を吐き出した。
(……終わった)
全身の力が抜け、泥のような疲労感が襲ってくる。
だが、その疲労感は決して嫌なものではなかった。
前回の中間テストの時のような「あと少しで」という後悔や焦りはない。零さんの地獄のドリルと、奏羽の甘いサポートのおかげで、持てる力は全て出し切ったという確かな手応えがあった。
「お疲れ、湊! 今回のテスト、全体的に難化してなかったか? 俺、数学で完全に死んだんだけど……」
親友の陸が、死んだ魚のような目をして俺の席にやってきた。
「……まぁ、難しかったけど。でも、なんとか食らいつけたと思う」
「マジかよ! お前、本当に化けたな……。愛の力、恐るべし」
陸が感心したように肩を叩いてくる。
その時、教室の入り口がザワッと騒がしくなった。
「——湊くんっ!」
振り返ると、そこには息を切らした奏羽が立っていた。
彼女は自分のクラスから全力で走ってきたらしく、冬服のセーターが少しだけ乱れている。
そして、周囲の目など一切気にせず、真っ直ぐに俺の席までやってくると、俺の胸に勢いよく飛び込んできた。
「わっ……!? 奏羽、お疲れ」
「湊くん、お疲れ様……っ! やったね、終わったね……!」
奏羽は俺の制服の胸元をぎゅっと握りしめ、顔を押し付けてきた。
その瞳は潤み、三日間の張り詰めていた緊張の糸が切れたように、身体が小刻みに震えている。
「手応えは、どうだった?」
「うん……! 湊くんと一緒に勉強したところ、いっぱい出たよ! わたし、今回は絶対に冴木くんに負けてないと思う!」
「そっか。よかった」
俺は彼女の背中を優しく撫でた。
クラスの連中が「また始まったよ」と生温かい視線を送ってくるが、今の俺たちには関係ない。
「……湊くんは? ちゃんと、わたしのお守り役に立った?」
「ああ。最高のお守りだった。……ありがとう、奏羽」
俺がズボンのポケットの上から、今朝もらった紺色のシュシュに触れて微笑むと、奏羽は「えへへ」と幸せそうに笑い、さらに強く俺に抱きついてきた。
「——コホン」
俺たちが教室のど真ん中でイチャついていると、入り口の方からわざとらしい咳払いが聞こえた。
「……テストが終わった途端にこれですか。全く、風紀もへったくれもあったものではないですね」
腕を組み、冷ややかな視線を送ってくるのは、一条副会長(零さん)だった。
「零さん! お疲れ様です」
「お疲れ様です。……風森さん、手応えはどうでしたか?」
「やれることはやりました。あとは結果を待つだけです」
俺が胸を張って答えると、零さんは眼鏡を指で押し上げ、小さく「ふむ」と鼻を鳴らした。
「……まあ、貴方のあの必死な勉強ぶりを見ていれば、無様な結果にはならないでしょう。……それにしても」
零さんは、俺の胸にすっぽりと収まっている奏羽を見て、呆れたようにため息をついた。
「会長、貴女は生徒会長なのですから、少しは自重しなさい。……それとも、テストのプレッシャーから解放されて、完全に『ポンコツ』に逆戻りですか?」
「ぽ、ポンコツじゃないもん! わたしはただ、湊くんに頑張ったご褒美をもらってるだけだもん!」
奏羽は顔を真っ赤にして反論するが、俺の制服を握る手は全く緩まない。
「……はぁ。勝手にしなさい。……私は生徒会室に戻ります。結果発表の日に、またお会いしましょう」
零さんはそう言い残し、踵を返して去っていった。
その後ろ姿は、どこか安心しているように見えた。
「……さて。湊くん、今日の午後から息抜きしようって、翠ちゃんが言ってたよね?」
奏羽が、俺の腕に自分の右腕を絡ませながら上目遣いで聞いてくる。
「ああ。テスト最終日の今日に合わせて、翠が朝から弁当を作って待ってるはずだ。……でも、どこ行くんだ?」
「えへへ……。近くの公園でピクニックだよ! 寒くても、湊くんとお揃いのマフラー巻いてれば平気だもん!」
奏羽は自分の鞄から、朝は外していたアイボリーのマフラーを取り出し、嬉しそうに俺の腕を引っ張った。
過酷な期末テストを乗り越えた俺たちに与えられた、束の間の休息。
結果発表という最後の審判を前に、俺たちはマンションで待つ妹の元へ、軽い足取りで向かっていくのだった。




