第92話:迫る決戦と、図書室の特等席
期末テストまであと一週間。
俺たちの放課後は、旧校舎の図書室の奥——いつもの特等席で、完全に固定化されていた。
「……はい、そこまで。風森さん、前回の模擬テストより数学の解法スピードが上がっていますね」
一条副会長(零さん)が、冷徹な声と共にストップウォッチを止めた。
俺はシャーペンを置き、大きく息を吐き出す。
彼女が用意した特進Sクラスレベルの過去問は、解けば解くほど脳のエネルギーを吸い取っていく悪魔のドリルだ。
「……ありがとうございます。でも、英語の長文読解がまだ安定しなくて」
「ええ。そこは冴木が確実に満点を取ってくる領域です。貴方が彼に追いつくためには、単語の暗記量を今の三倍に増やす必要があります」
零さんの無慈悲な宣告に、俺は肩を落とした。
だが、その時。
「湊くん、大丈夫! わたしが単語カード、新しく作ってきたから!」
隣に座っていた奏羽が、パァッと顔を輝かせて手作りの単語カードの束を俺の前に差し出した。
彼女は自分の勉強を完璧なペースでこなしながら、俺の弱点を補うための教材を毎日手作りしてくれているのだ。
「……ありがとう、奏羽。本当に助かるよ」
「えへへ……。湊くんが頑張ってるから、わたしも頑張れるんだよ」
奏羽は俺の左腕に自分の右肩をピタリと密着させ、嬉しそうに微笑んだ。
その温もりと甘いシャンプーの香りが、疲労困憊の俺の脳にダイレクトに染み渡る。
「……コホン。会長、イチャつくのは休憩時間にしなさいと言ったはずですが」
零さんが眼鏡を押し上げ、呆れたように咳払いをした。
「だ、だって零さん……湊くんが疲れきってるから、わたしが少しでも癒してあげようと……」
「貴女が密着すると、彼の脳のリソースが『学習』から『煩悩』に切り替わって非効率です。……離れなさい」
「……はーい」
奏羽は不満そうに唇を尖らせながらも、渋々といった様子で身体を離した。
俺は顔を熱くしながら、単語カードを受け取った。
「……それにしても、冴木は最近、妙に静かですね」
俺が単語カードをめくりながら呟くと、零さんが小さく頷いた。
「ええ。裏掲示板での扇動もピタリと止まりました。全校集会での会長の宣言が、彼の想定以上に生徒たちの支持を集めたからでしょう」
「支持、ですか?」
「『完璧な偶像』ではなく、『等身大の女の子』としての弱さを晒したことで、むしろ会長のカリスマ性は高まりました。……冴木は今、盤外戦術を諦め、純粋な学力だけで会長と貴方を徹底的に叩き潰す気でいるはずです」
零さんの言葉に、図書室の空気がピンと張り詰めた。
「……負けないもん。わたしも、湊くんも」
奏羽が、俺の制服の袖口をぎゅっと握りしめた。
「冴木くんがどんなに勉強してても、わたしには湊くんがいるから。……湊くんが隣で頑張ってるのを見れば、わたしは一人で勉強するより、何十倍も強くなれる」
彼女の瞳には、かつてプレッシャーに怯えていた影は一切ない。
そこにあるのは、俺という絶対的な「お守り」を手に入れた、気高く強い女王の眼差しだった。
「……その意気です、会長。では、次の英語の長文読解、始めますよ」
「はいっ!」
零さんの合図と共に、俺たちは再び問題用紙へと向かった。
* * *
その日の夜。
マンションに帰宅した俺たちは、翠が作ってくれた夕飯(今日は生姜焼きだった)を食べ終え、リビングのテーブルで再び勉強を再開していた。
「……うーん、ここ、どう訳せばいいんだろう……」
俺が英語の長文で頭を抱えていると、客間でテレビを見ていたはずの翠が、ひょっこりと顔を出した。
「お兄ちゃん、まだやってるの? もう十一時だよ」
「ああ。今日中にこの長文の復習を終わらせないと、明日の零さんの小テストに間に合わないんだ」
「ふーん……。奏羽さんは?」
翠の視線の先には、俺の隣でウトウトと船を漕いでいる奏羽の姿があった。
彼女は自分のノルマを終え、俺の勉強を見守っていたのだが、連日の寝不足と疲労がピークに達したらしい。
「……奏羽、おい。風邪引くからベッドに行けよ」
俺が肩を揺さぶると、奏羽は「んぅ……」と寝言を漏らし、俺の左腕にギュッとしがみついてきた。
「……湊くん、終わるまで……ここで待ってる……」
「だから、無理するなって。お前が倒れたら元も子もないだろ」
「……やだ。湊くんの隣が、いいの……」
奏羽は俺のTシャツの袖を握りしめたまま、完全に夢の中へと落ちていった。
「……はぁ。本当に、甘えん坊だな」
俺が苦笑いしながら彼女の頭を撫でていると、翠が呆れたようにため息をついた。
「お兄ちゃん。……それ、完全に奏羽さんの『特等席』になっちゃってるじゃん。私がお母さんに報告したら、一発アウトだよ?」
「……頼むから見逃してくれ。これが俺のモチベーションの源泉でもあるんだ」
俺が懇願すると、翠は「しょうがないなー」と肩をすくめた。
「じゃあ、私が毛布持ってくるから、風邪引かせないようにね。……あと、あんまりイチャイチャして勉強サボったら、容赦なく写真撮って送るから」
「わかってるよ。……サンキュー、翠」
翠が毛布を持ってきてくれ、俺はそれをそっと奏羽の肩に掛けた。
彼女の穏やかな寝息と、甘いシャンプーの香りが、深夜のリビングを優しく包み込む。
(……あと一週間。絶対に、この特等席を守り抜いてやる)
俺は奏羽の寝顔を横目で見ながら、再び英単語のカードをめくり始めた。
特進クラスの精密機械を打ち破るための、静かで熱い夜が、また一つ更けていった。




