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第90話:優しい父親と、氷の女王の「裏の顔」

歓喜の抱擁を終え、俺たちは深く息を吐き出してリビングを後にした。

玄関へ向かう廊下を歩きながら、奏羽はまだ信じられないというように、俺の右腕に自分の左腕を絡ませてニコニコと笑っている。


「……良かった。本当にお母様、許してくれた……」

「仮採用の延長だけどな。でも、これで期末テストに集中できる」

「うんっ! 湊くん、一緒に頑張ろうね!」


前を歩く零さんも、微かに安堵したような足取りだった。

俺たちが玄関ホールに差し掛かった、その時。


ガチャリ、と重厚な玄関の扉が開き、外から一人の男性が入ってきた。

オーダーメイドのスーツをビシッと着こなしているが、その顔立ちはとても温和で、目元が奏羽にそっくりだった。


「おや。……奏羽に、一条さんじゃないか。それに……」


男性は俺を見ると、パァッと人懐っこい笑顔を浮かべた。


「お父様、おかえりなさい」

「ああ、ただいま。……君が、噂の風森湊くんだね?」


「は、はい! 風森湊と申します!」

俺が慌てて直立不動で頭を下げると、奏羽のお父さんは「ははは、そんなに緊張しなくていいよ」と俺の肩をポンと叩いた。


(……凪瀬夫人が氷の女王なら、お父さんは絶対零度の魔王かと思ったけど……めちゃくちゃ優しそうな人だな)


俺が内心でホッとしていると、お父さんは奏羽と零さんに優しく微笑みかけた。

「二人とも、少し彼をお借りしてもいいかな? 男同士で、少し話をしたいんだ」

「……はい。湊くん、待ってるね」

「かしこまりました。庭の方でお待ちしております」


奏羽と零さんが外へ出ると、お父さんは俺を玄関脇の小さな応接室へと招き入れた。


「どうぞ、かけて。……いやぁ、妻から話は聞いていたけれど、本当に優しそうな青年で安心したよ」

「え……奥様から、俺の話を?」


お父さんはソファに腰を下ろし、ふうっと息を吐いた。

「ああ。妻は君たちのことを、とても気にかけているんだ。全校集会のことも、すぐに私の携帯に連絡が来てね。……風森くん。まずは、父親としてお礼を言わせてほしい。娘を、あの重圧から救い出してくれて、本当にありがとう」


お父さんが深々と頭を下げるので、俺は慌てて手を振った。

「やめてください! 俺はただ、奏羽が一人で苦しんでいるのを放っておけなかっただけで……彼女に救われているのは、俺の方ですから」


俺の言葉に、お父さんはとても嬉しそうに目を細めた。

「……やはり、私の見込んだ通りだ。妻も、君のそういう真っ直ぐなところを『生意気だ』と言いながらも、高く評価しているんだよ」

「評価……ですか? でも、二週間後の期末テストで、学年十位以内とトップ死守という厳しい条件を出されました。クリアできなければ、奏羽は海外へ送ると……」


「ははは! あの人は、本当に不器用だからね」

お父さんは声を上げて笑った。


「風森くん。……これはここだけの秘密だけれど、あの厳しい『氷の女王』にも、実は大きな弱点があってね」

「弱点、ですか?」


お父さんは、いたずらっ子のように声を潜めた。


「妻はああ見えて、私の前では……奏羽と全く同じなんだよ」

「……はい?」

「昔は彼女も、凪瀬家という名門の重圧に押し潰されそうでね。毎晩、不安で泣いていた時期があった。……今でも、私が出張で何日も家を空けると、寂しくて夜も眠れなくなるらしい。私が帰ると、人目も気にせず服の袖を掴んで『どこにも行かないで』って甘えてくるんだ」


「えぇぇぇっ!?」

俺は思わず、すっとんきょうな声を上げてしまった。

あの、一分の隙もない着物姿で、冷酷な宣告を下してきた凪瀬夫人が? 奏羽みたいに、袖を掴んで甘えてくる!?


「信じられないだろ? でも、本当なんだ。……つまり、君と奏羽の関係は、昔の私たち夫婦にそっくりなんだよ。だからこそ、妻は君たちに過去の自分たちを重ねている」


お父さんは、優しい目で俺を見つめた。


「妻が厳しい条件を出したのは、君たちを引き離すためじゃない。……名門の重圧や、周囲の悪意という『外の世界』と戦うための覚悟と実力を、君たちに身につけさせるためだ。……彼女は、君たちなら絶対に乗り越えられると信じているんだよ」


「……っ」


俺の胸の奥で、何かが熱く弾けた。

ラスボスだと思っていた凪瀬夫人。その厳しい言葉の裏には、自分たちと同じように「依存」を「高め合う強さ」に変えてほしいという、不器用な親心とエールが隠されていたのだ。


「……分かりました。お父さん……いえ、お父様」

俺は立ち上がり、深く頭を下げた。


「必ず、期末テストで条件をクリアしてみます。……奏羽のことも、俺が一生かけて、お父様たち以上に幸せにします」


「ああ、頼んだよ。……それと、妻の秘密をバラしたことがバレたら、私が一生口を利いてもらえなくなるから、内緒にしておいてくれよ?」

お父さんがウインクをすると、俺もつられて笑ってしまった。


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