第89話:凪瀬邸への帰還と、氷の女王の審判
全校集会での奏羽の「ありのままの宣言」は、学園に嵐を巻き起こした。
午後からの授業中も、廊下を歩く間も、生徒たちは俺と奏羽を見るなり道を譲り、遠巻きに畏敬の念を込めてヒソヒソと囁き合っていた。
「不純な同棲」という悪意のレッテルは完全に剥がれ落ち、代わりに「親公認で学年トップを争う究極のカップル」という、ある意味でさらにアンタッチャブルな伝説へと昇華されてしまったのだ。
そして、放課後。
俺と奏羽、そして零さんの三人は、重い足取りで学園を出て、凪瀬家の本邸へと向かっていた。
「……湊くん」
奏羽が、俺の首元に巻かれたネイビーのマフラーの端を、そっと指先で引っ張ってきた。
彼女の首には、アイボリーのお揃いのマフラー。冬の冷たい風が吹く中、その温もりが俺たちの気持ちを繋ぎ止めてくれている。
「どうした、奏羽。まだ震えてるのか?」
「ううん。……少しだけ、夢みたいだなって」
奏羽は、マフラーに顔を半分埋めたまま、ふわりと微笑んだ。
「全校生徒の前で、あんなに大きな声で自分の気持ちを言えたこと。……湊くんが隣にいるって言ってくれたこと。……お母様に何を言われても、もう、あの頃の怖いだけのわたしじゃないって思えるの」
彼女の瞳には、かつてのプレッシャーに怯えていた影はなく、真っ直ぐな強さが宿っていた。
「……頼もしいよ。俺も、お前に負けてられないな」
俺が彼女の頭をポンと撫でると、前を歩いていた零さんが足を止めた。
見覚えのある重厚な鉄の門が、目の前にそびえ立っている。
「……到着しましたよ。二人とも、浮かれるのはまだ早いです」
零さんは眼鏡を指で押し上げ、厳しい声で釘を刺した。
「会長が全校生徒の前で、凪瀬家の名を背負いながら『同棲の事実』と『自分の弱さ』を公言したのです。……夫人がそれをどう評価するかは未知数。覚悟を決めて入りなさい」
零さんがインターホンを押すと、スピーカーから冷たく澄んだ凪瀬夫人の声が響き、重々しい音を立てて門が開いた。
* * *
通されたのは、西洋風の調度品で統一された、広すぎるリビングだった。
革張りのソファには、一分の隙もない着物姿の凪瀬夫人が腰掛けており、手元のティーカップから静かに湯気が立ち上っている。
「……失礼いたします、お母様」
「失礼します」
俺と奏羽が深く頭を下げると、夫人はゆっくりと顔を上げ、俺の左腕に右肩をピタリと密着させている奏羽の姿を、冷ややかに一瞥した。
「……一条さんから、大まかな報告は受けました。そして、全校集会での貴女のスピーチの録音データも、先ほど聞きました」
夫人の声は、相変わらず冷房の効いた部屋よりも冷たかった。
俺はゴクリと唾を飲み込み、背筋を伸ばす。
「……奏羽。貴女は、凪瀬の娘として『完璧であれ』という私の教えを、全校生徒の前で真っ向から否定しましたね」
「……はい、お母様」
奏羽の声は少し震えていたが、俺の腕に体重を預けるその姿勢には、決して折れない強い力が込められていた。
「わたしは、もうお母様の期待する『完璧な娘』には戻れません。……夜も一人で眠れないくらい弱くて、不器用で。でも、湊くんが隣にいてくれるから、わたしは自分の足で立っていられるの」
夫人が驚愕に目を見開くかと思ったが、彼女の表情は氷のように静かなままだった。
「……それは、凪瀬の家名を傷つけるだけの、ただの『依存』ではないのですか?」
「違います」
奏羽は、一歩だけ俺から離れ、自らの足でしっかりと立ち、母親を真っ直ぐに見据えた。
「わたしは、湊くんに甘えているだけじゃありません。彼がわたしのために必死に戦ってくれているから、わたしも生徒会長として、誰にも負けない結果を出せる。……これは、お互いを高め合うための、わたしにとって必要な強さです」
それは、かつて母親の顔色を窺っていた「氷の令嬢」の面影はない、一人の自立した人間の言葉だった。
夫人は、しばらく無言で娘の顔を見つめ、やがて視線を俺へと移した。
「……風森さん」
「はい」
「貴方が、私の娘をここまで変えたのですね。……私の知る、従順で完璧だった人形を、随分と泥臭く、そして……生意気な人間に」
夫人の言葉には棘があったが、その奥に、ほんの少しだけ「諦め」と「安堵」が入り混じっているように聞こえた。
「すみません。でも、俺は今の彼女が……ありのままの奏羽が、誰よりも美しくて、強いと思っています。……俺は、絶対に彼女の隣を譲りません」
俺が真っ直ぐに夫人の目を見て言い切ると、夫人は深く、長い溜息を吐き出した。
「……分かりました。全校生徒の前で大見得を切ったのです。ここで私が無理やり引き離せば、それこそ学園の秩序が乱れるでしょう」
「それじゃあ……!」
「ですが、勘違いしないでください」
夫人の視線が、再び氷のように鋭く光った。
「私が認めるのは、あくまで『結果を出し続けること』が前提です。……二週間後の期末テスト。奏羽は学年トップを死守し、風森さん、貴方は今度こそ『学年十位以内』に必ず入りなさい」
「……はい」
「もし、どちらか一つでも欠ければ、今度こそ容赦なく奏羽を海外へ送ります。……覚悟はよろしいですね?」
「絶対に、クリアしてみせます」
俺が力強く宣言すると、夫人は「……一条さん、引き続きこの二人を徹底的に絞り上げなさい」とだけ言い残し、立ち上がってリビングの奥へと消えていった。
「……っ、湊くん……!」
「奏羽……!」
夫人の姿が見えなくなった瞬間、奏羽は緊張の糸が切れたように、わっと声を上げて俺の胸に飛び込んできた。
俺は、歓喜の涙を流す彼女の細い腰を力強く抱きしめ返した。
全校集会での反撃と、凪瀬夫人との直接対決。
俺たちはついに、学園と親の両方から、自分たちの居場所を「自分たちの力」で勝ち取ったのだ。
残すは、期末テストという最後の戦いのみ。
俺の胸で幸せそうに笑う彼女の体温を感じながら、俺は絶対に冴木を打ち破り、この甘い日常を守り抜くと、強く心に誓っていた。




