第9話:寝落ち通話と、甘い耳元
翌日、火曜日の夜十一時。
自室のベッドの上で、俺は少しだけ緊張しながらスマホの画面を見つめていた。
昨日の放課後、俺は凪瀬さんに「声が聞きたくなったら、いつでも電話していい」と言った。
そして一時間前、彼女からメッセージアプリで初めて連絡が来たのだ。
『湊くん、起きてる……?』
『ああ、起きてるよ。眠れないのか?』
『……うん。あのね、少しだけ……声、聞かせてくれないかな』
俺はすぐに『いいよ』と返信し、通話ボタンを押した。
「もしもし、凪瀬さん?」
『……湊、くん』
スマホ越しに聞こえる彼女の声は、普段のクールな印象とは違い、少し掠れていて、ひどく心細そうだった。
まるで、迷子になった子供のような声だ。
「どうした? やっぱり、夜は怖いか」
『うん……。なんか、すごく静かで。目を閉じると、不安で心臓がドキドキしちゃって……』
ベッドの中で丸まっているのか、布団の衣擦れの音が微かに聞こえる。
俺は彼女が安心して眠れるように、できるだけ低く、ゆっくりとしたトーンで話し始めた。
「大丈夫だよ。俺は起きてるし、電話も繋がってるから」
『……ほんとに? 切らない……?』
「ああ、凪瀬さんが寝るまで、ずっと繋いでおくよ」
電話越しに、ふうっと安堵の息を吐く音が聞こえた。
『……湊くんの、声。すごく、安心する。すぐそばにいるみたい……』
イヤホンをしていないのに、彼女の吐息が直接耳元にかかっているような錯覚に陥り、俺は無意識に耳を赤くした。
「そういえば、日曜日の夜は俺のハンカチを抱きしめて我慢してたんだってな」
『……っ、言わないで。恥ずかしい……』
スマホ越しだから顔は見えないけれど、きっと今頃、耳まで真っ赤にして布団に顔を埋めているのだろう。
その姿を想像するだけで、愛おしさが込み上げてくる。
「別に恥ずかしいことじゃないだろ。俺の匂いで安心してくれるなら、ハンカチくらい何枚でもあげるよ」
『……ほんと? じゃあ、次から湊くんの服、全部わたしが洗うね』
「いや、それは流石に重いぞ」
俺が苦笑いすると、凪瀬さんは「ふふっ」と小さく笑った。
彼女が笑う声を聞くのは、これが初めてかもしれない。
『ねえ、湊くん』
「ん?」
『……今日、本読んでくれないの?』
「あ、そうだった。今日はどの本がいい? 手元に何冊かあるけど」
『……ううん。今日は、湊くんのお話が聞きたいな』
お話、か。
俺は少し考えてから、話し始めた。
「今日、図書委員の仕事で、新しい本の整理をしてたんだけどさ。柚原先輩が『風森くん、最近楽しそうね』って言ってきたんだよ」
『……柚原、先輩……?』
凪瀬さんの声が、少しだけピクリと反応したのがわかった。
「ああ、俺たちのこと、薄々気づいてるみたいなんだよな。でも『二人だけの秘密にしてあげる』って言ってくれてるから、心配しなくていいよ」
『……そっか』
凪瀬さんは、少しだけ不満そうに呟いた。
『……わたし、柚原先輩に……やきもち、焼いちゃうかも』
「え?」
『だって、柚原先輩は……毎日、図書室で湊くんと一緒にいるんだもん。わたしは、放課後しか……湊くんに会えないのに』
俺は、一瞬言葉を失った。
孤高の美少女が、俺の先輩にヤキモチを焼いている?
それはつまり、俺のことを……。
「……な、凪瀬さん?」
『……湊くん……好き』
「えっ!?」
『……湊くんの、声……すき……。ずっと、聞いてたい……』
(……ああ、そういうことか)
心臓が飛び跳ねたが、彼女は完全に寝ぼけているようだった。
睡眠導入剤としての「声」が好きなのだと、自分に言い聞かせる。
『……湊くん……』
「はいはい、ここにいるよ」
『……ん……』
それから数分後。
スマホ越しに、規則正しい、静かな寝息が聞こえ始めた。
「……寝たか」
俺は、彼女の寝顔を想像しながら、そっと微笑んだ。
そして、彼女が完全に熟睡するまでの一時間、俺はスマホを耳に当てたまま、静かに彼女の寝息を聞き続けた。
初めての寝落ち通話。
それは、放課後の図書室とはまた違う、俺たちだけの、甘くて秘密の時間だった。




