第8話:ハンカチの真相と、日曜日の夜の秘密
放課後の図書室。
カウンターの奥、いつもと同じ死角のスペースには、すでに凪瀬さんが壁に寄りかかって待っていた。
俺の姿を見つけると、彼女はホッとしたように小さく息を吐き、自分の隣のスペースをトントンと叩く。
「……待たせた。柚原先輩から、新刊のリスト作りを頼まれててな」
「ううん。……湊くん」
俺が腰を下ろすか下ろさないかのうちに、凪瀬さんは俺の制服の袖口をぎゅっと掴んできた。
最近はもう、これが彼女のデフォルトの姿勢になっている。
「なぁ、凪瀬さん。昼休みの件なんだけど」
「……っ」
俺が切り出すと、彼女はビクッと肩を震わせ、気まずそうに目を逸らした。
俺はポケットから、昼休みに彼女から渡されたハンカチを取り出す。
「これ、確かに俺のハンカチなんだけどさ。俺、君に『貸した』覚えはないんだよな」
そう。見覚えがあるのは当然だ。それは俺が普段から使っている、紺色の無地のハンカチなのだから。
しかし、俺はこれを彼女に手渡した記憶がない。
「……あの、ね」
凪瀬さんは俺の袖を握る手に少しだけ力を込め、消え入るような声で口を開いた。
「土曜日に、公園のベンチで……湊くん、落としてたから。拾ったの」
「拾った? じゃあ、その時に言ってくれれば……」
「……返したく、なかったの」
凪瀬さんが、潤んだ上目遣いで俺を見上げてくる。
「湊くんの、匂いがしたから。……それを持っていれば、日曜日の夜も、少しだけ安心できるかなって」
「……」
破壊力が高すぎる。
つまり彼女は、俺の落とし物をこっそり持ち帰り、それを抱きしめて日曜の夜を過ごしたということか。
孤高の美少女が、俺のハンカチの匂いを嗅いで安心している姿を想像してしまい、顔に熱が集まるのを感じた。
「でも、それなら『拾ったから返す』でよかっただろ? なんでわざわざ、俺の教室まで来て、しかも『貸した』なんて嘘を……」
そこまで言って、俺は昼休みの彼女の行動——親友の陸に向けた、あの冷ややかな視線と、小悪魔のような微笑みを思い出した。
「もしかして……陸に見せつけるためか?」
「…………うん」
凪瀬さんは、耳まで真っ赤にしながら、小さくコクンと頷いた。
「だって……時野くん、湊くんのこと、カラオケに誘ってたって言うから。もしまた、休日に湊くんを連れ出されちゃったら……わたし、困るから」
「困るって……」
「だから……『湊くんは、わたしとハンカチを貸し借りするくらい仲がいいんだから、邪魔しないでね』って……わかってもらいたくて」
なんて不器用で、いじらしい牽制だろうか。
学園中から「近寄りがたい氷の姫」と恐れられている少女が、ただ俺の休日を自分だけのものにしたくて、わざわざ慣れない嘘をついてまで、俺の親友にマウントを取りに来たのだ。
「……はぁ。お前なぁ」
俺がわざとらしくため息をつくと、凪瀬さんは「怒ってる……?」と不安そうに眉を下げた。
「怒ってないよ。ただ……日曜日の夜、どうしても眠れなかったら連絡してくれって、俺のID渡しただろ? ハンカチなんかで我慢しないで、頼ってくれればよかったのに」
そう言うと、彼女はさらに顔を赤くして、俯いてしまった。
「……だって。湊くんの貴重な休日を、これ以上奪っちゃいけないって思って……我慢、したの」
「……本当に不器用だな、凪瀬さんは」
俺は苦笑いしながら、彼女の頭にポンと手を乗せた。
サラサラの黒髪が指の間に絡む。彼女は少しだけビクッとした後、されるがままに目を閉じ、猫のように気持ちよさそうに擦り寄ってきた。
「次は我慢するなよ。声が聞きたくなったら、いつでも電話していいから」
「……ほんとに?」
「ああ。俺の声で眠れるなら、安いもんだ」
俺がそう言うと、凪瀬さんは花が綻ぶような、それはそれは綺麗な笑顔を見せた。
そして、俺の右肩にこつんと頭を預け、シャツの袖口を両手でしっかりと握りしめる。
「……じゃあ、今日はこの本でいいか?」
「うん。……湊くんの声、すき」
大胆な発言に心臓が大きく跳ねたが、彼女にとっては「声が(睡眠導入剤として)好き」という意味なのだろうと、無理やり自分を納得させる。
俺は呼吸を整え、ゆっくりと物語を読み始めた。
「『——ある夜、星の降る丘で……』」
俺の肩で、すぐに規則正しい寝息が聞こえ始める。
俺のハンカチを抱きしめて、俺に迷惑をかけまいと一人で我慢していた日曜の夜。
その孤独を埋めるように、今日の彼女はいつもより深く、俺に体重を預けていた。




