第7話:月曜日の教室と、不器用な牽制
「んんっ……」
土曜日の午後。休日の寂れた公園。
俺の右肩で一時間ほど熟睡していた凪瀬さんが、小さく身じろぎをして目を覚ました。
「おはよう、凪瀬さん。よく眠れたか?」
「……あっ」
自分が屋外のベンチで、俺にべったりと寄りかかって寝ていたことに気づき、彼女は慌てて体を起こした。
そして、自分の両手が俺のシャツの袖口をくしゃくしゃに握りしめているのを見て、みるみるうちに耳まで真っ赤に染め上げる。
「ご、ごめんなさいっ! わたし、外なのに……っ」
「気にするな。誰も通らなかったし、よく寝てたから起こすのも悪いと思って」
「でも……湊くんの右腕、また痺れちゃったんじゃ……」
凪瀬さんは申し訳なさそうに眉を下げ、おずおずと俺の右腕を見つめる。
確かに感覚はないに等しかったが、彼女が少しでも休めたならそれでいい。
「大丈夫だ。それより、少しはスッキリしたか?」
「……うん。すごく、安心した。……湊くんの匂いも、して」
「匂い?」
「あ……っ、なんでもない!」
自爆したように顔を覆う凪瀬さんが、たまらなく可愛らしく見えた。
「じゃあ、そろそろ帰ろうか。また月曜の放課後、図書室でな。……明日の日曜日は、もしどうしても眠れなかったら、連絡してくれ」
俺がそう言って連絡先(メッセージアプリのID)のメモを渡すと、凪瀬さんはぱぁっと顔を輝かせ、宝物のように両手でそのメモを握りしめた。
「……うんっ。絶対、連絡する」
帰り際、駅で別れる時。
凪瀬さんは名残惜しそうに俺の袖口をちょこんとつまみ、「……月曜日、待ってるね」と小さく呟いてから、自分の家の方角へと歩いて行った。
* * *
そして、月曜日。
昼休みの教室は、いつものように騒がしかった。
「いやー、週末のカラオケマジで最高だったわ! なぁ湊、お前も来ればよかったのに」
前の席から振り返った親友の時野 陸が、購買で買ってきた焼きそばパンをかじりながら話しかけてくる。
「俺は図書館で調べ物があったからな。楽しかったなら何よりだ」
「お前ほんっと真面目だよなー。あ、そういえばさ」
陸は思い出したように、声を一段階潜めて俺に身を乗り出してきた。
「さっき廊下で、隣のクラスの凪瀬さんとすれ違ったんだけどさ」
「……っ!」
「なんか、すげー冷たい目で見られた気がするんだよな。俺、あの子に何かしたっけ?」
「冷たい目?」
俺が聞き返すと、陸はブルッと大げさに身震いしてみせた。
「おう。なんかこう……『絶対零度』みたいな? 普段からクールだけど、今日は特別機嫌が悪そうっていうか。……あ! もしかして、俺が週末にお前をカラオケに誘ったのを聞かれてて、『図書委員の仕事をサボらせようとする害虫』的な扱い受けてるとか!?」
陸の妄想力には恐れ入るが、俺の心臓は別の意味で嫌な音を立てていた。
(まさか、土曜日に俺と陸が話していたのを聞かれていて、『湊くんの時間を奪おうとする存在』として敵視されているんじゃ……)
その時だった。
「——風森くん」
教室の入り口から、凛とした、けれどどこか緊張を含んだ声が響いた。
クラス中の視線が一斉にそちらへ向く。陸の焼きそばパンが口からこぼれ落ちそうになっていた。
そこに立っていたのは、他でもない凪瀬奏羽だった。
腰まで届く艶やかな黒髪。透き通るような白い肌。誰とも群れない「孤高の美少女」が、わざわざ別のクラスである俺の教室まで足を運んできたのだ。
「……えっ? 凪瀬さんが、湊に?」
「マジかよ、あの氷の姫が……」
教室内がざわつく中、凪瀬さんは周囲の視線など全く気にする様子もなく、俺の席まで真っ直ぐに歩いてきた。
そして、俺の前の席に座る陸を一瞥する。
その瞳には、確かに陸の言う通り、少しだけ……いや、かなり冷ややかな光が宿っていた。
「ひっ」
陸が小さく悲鳴を上げて席を立つと、凪瀬さんは満足そうに頷き、俺の机の前に立った。
「な、凪瀬さん? どうしたんだ?」
「……これ」
凪瀬さんが無言で差し出してきたのは、綺麗にアイロンがけされた、見覚えのあるハンカチだった。
「先週……図書室で、風森くんに借りたから。洗って、きたの」
——そんな事実はない。
俺は彼女にハンカチなど貸していない。
しかし、彼女の大きな黒い瞳が「話を合わせて」と訴えかけているのが分かり、俺は慌ててそれを受け取った。
「あ、ああ。ありがとう、わざわざ悪いな」
「ううん。……それじゃあ、また放課後、図書室で」
凪瀬さんは、わざとらしく「放課後、図書室で」という部分を強調して言った。
そして、去り際にちらりと陸の方を見て——。
(……えっ?)
俺からしか見えない角度で、彼女はほんの少しだけ、小悪魔のように得意げに唇を綻ばせた。
まるで、「湊くんの放課後は、わたしのものだからね」と牽制するかのように。
「……っ」
凪瀬さんが教室を出て行った後、陸が震える手で俺の肩を掴んだ。
「お、おい湊……。お前、いつの間にあの氷の姫とハンカチの貸し借りする仲になってたんだよ……!」
「いや、これはその……図書委員の仕事で、たまたまな」
俺は必死に取り繕いながら、手の中のハンカチを握りしめた。
綺麗に畳まれた布地からは、休日に公園で嗅いだのと同じ、あの甘くて清潔なシャンプーの香りが微かに漂っていた。
ミステリアスで孤高の美少女。
彼女が俺に向ける感情が、ただの「睡眠導入剤としての依存」から、少しずつ別のもの——「独占欲」のようなものへと変わり始めていることに、俺はこの時ようやく気づき始めていた。




