第87話:悪意の放課後と、女王の反撃
学内裏掲示板の書き込みによる騒動は、その日の授業中も俺たちの周囲に冷たい波紋を広げ続けていた。
すれ違う生徒たちの好奇の目、ヒソヒソと交わされる悪意のある憶測。
だが、奏羽は誰の視線からも逃げることなく、背筋を伸ばし、堂々と「生徒会長」としての振る舞いを崩さなかった。
放課後。
俺たちはいつものように、旧校舎の図書室へと向かった。
しかし、今日ばかりは補習の空気が違っていた。
「……風森さん。会長」
特等席で待ち構えていた一条副会長(零さん)は、参考書ではなく、数枚のプリントをテーブルに並べていた。
「これは……?」
「今日一日で、学校の問い合わせ窓口や、生徒会の目安箱に投函された『苦情』の数々です。……大半が、会長の素行不良を非難し、辞任を求める内容です」
零さんの言葉に、俺は息を呑んだ。
「辞任……そこまで……!」
「ええ。匿名性を利用して、生徒たちの不安や不満を煽るように仕向けられています。……巧妙に、そして確実に、会長を孤立させるための手口ですね」
零さんはプリントを指で弾き、冷たい視線を窓の外へ向けた。
「……そして、最も厄介なことに、この騒動はすでに凪瀬夫人の耳にも入っています」
「お母様に……!」
奏羽の肩がビクッと跳ねた。
「夫人は『学業と品行を最優先する』という条件で、貴方たちの関係を仮採用しました。……この状況は、明らかにその条件に違反していると見なされる可能性が高い」
「そんな……! 俺たちは何も悪いことはしてないのに!」
「世間や大人にとっては、真実よりも『噂による悪影響』の方が問題なのです。……夫人から、明日の放課後、私と会長、そして風森さんの三人で本邸へ来るようにと連絡がありました」
明日の放課後。
それが、俺たちに与えられた猶予の限界だった。
そこで夫人が「同棲解消」と「海外転校」を言い渡せば、俺たちの関係は終わりを迎える。
「……零さん。冴木がこれを仕組んだ証拠は、本当に掴めないんですか?」
俺が拳を握りしめて尋ねると、零さんは首を横に振った。
「ネットの書き込みの特定は、生徒会の権限では不可能です。……彼は、自分の手を汚さずに盤外から盤上をひっくり返そうとしている。極めて合理的で、卑劣な『精密機械』です」
「……くそっ」
打つ手がない。
このままでは、冴木の思惑通り、奏羽は精神的に追い詰められ、期末テストを前に学園を去ることになってしまう。
沈黙が図書室を支配する中、ずっと俯いていた奏羽が、ゆっくりと顔を上げた。
「……ねえ、零」
「何ですか、会長」
「明日、お母様のところに行く前に……わたし、全校集会を開きたい」
「全校集会……?」
俺と零さんは、同時に声を上げた。
「うん。……目安箱に苦情がいっぱい来てるなら、わたしが直接、みんなの前で説明する責任があると思うの。……生徒会長として」
奏羽の瞳は、真っ直ぐに零さんを見据えていた。
その目には、涙や怯えは一切なく、確固たる決意の炎が燃えていた。
「……会長。貴女が全校生徒の前で何を釈明しようと、面白半分で叩きたい連中の火に油を注ぐだけですよ? それに、同棲の事実を隠せば嘘になり、認めればさらに非難を浴びる。……貴女に、その十字架を背負う覚悟が……」
「あるよ」
奏羽は、迷うことなく言い切った。
「わたしは、もう『完璧な仮面』で自分を守るのはやめたの。……湊くんが、ありのままのわたしを好きだって言ってくれたから」
彼女は俺の方を振り向き、フッと柔らかく微笑んだ。
「……湊くんが隣にいてくれるなら、わたしはどんな十字架だって背負える。……だから、零。明日の昼休み、体育館を使わせて」
奏羽の圧倒的な覚悟を前に、零さんはしばらく言葉を失い、やがて小さくため息をついて眼鏡を押し上げた。
「……分かりました。私が手配します。……ですが、これは生徒会としても賭けになります。もし失敗すれば、貴女は本当に全てを失う」
「うん。……でも、絶対に失敗しないから」
奏羽は力強く頷き、俺の左腕に自分の右肩をピタリと密着させてきた。
その温もりから、彼女の心臓の力強い鼓動が伝わってくる。
「……奏羽」
「湊くん……?」
「合同交流会議の時は一番後ろの席で見てたけど……今回は、ステージの袖まで一緒に行く。お前が戦うところを、一番近くで見ていたい」
俺がそう告げると、奏羽は「……ありがとう」と目を細め、俺の腕にさらに体重を預けてきた。
冴木の卑劣な盤外戦術に対し、奏羽は逃げることなく、正面から受けて立つことを選んだ。
「完璧な生徒会長」ではなく、「ありのままの凪瀬奏羽」としての、全校生徒への反撃。
明日の昼休み、体育館のステージで、俺たちの運命を決める大勝負が始まろうとしていた。




