第86話:広がる波紋と、揺らがない手
学内裏掲示板への書き込み。
それは、またたく間に全校生徒の知るところとなった。
翌朝、俺と奏羽がいつものようにお揃いのマフラーを巻いて登校すると、周囲の視線は昨日の「冷やかし」や「嫉妬」とは全く違う、明確な「好奇」と「悪意」を含んだものに変わっていた。
「……おい、見たかよ。会長、本当に風森と同棲してるらしいぞ」
「親公認って言ってたのも嘘だったんだろ? 生徒会長のくせに、だらしねぇな」
「てか、風森って親海外にいるんでしょ? やばくない?」
すれ違う生徒たちの心ないヒソヒソ話が、俺たちの耳に容赦なく突き刺さる。
俺は思わず拳を握りしめたが、隣を歩く奏羽が、俺の制服の袖口をいつもより強く、ぎゅっと握りしめてきた。
「……奏羽、大丈夫か?」
「うん。……大丈夫だよ、湊くん」
奏羽は前を向いたまま、凛とした表情を崩さなかった。
だが、その声は微かに震えており、握る指先は氷のように冷たかった。
完璧な生徒会長として誰からも尊敬されていた彼女にとって、いわれのない誹謗中傷を浴びせられるのは、想像以上に過酷なはずだ。
「……お前ら、いい加減にしろよ!」
下駄箱で靴を履き替えようとした時、不意に大きな声が響いた。
親友の陸だった。彼は、噂話をしている男子生徒たちに食ってかかろうとしていた。
「風森と会長が同棲してるって証拠がどこにあんだよ! ネットの適当な書き込み信じてんじゃねぇぞ!」
「な、なんだよ時野。お前、風森のダチだから庇ってんだろ」
「なんだと……!」
「——そこまでです」
陸が胸ぐらを掴もうとした瞬間、氷のように冷たい声がその場を制圧した。
腕章をつけた一条副会長(零さん)と、書記の結衣、会計の津々屋が生徒たちをかき分けて現れた。
「……根拠のない噂話で風紀を乱す者は、生徒会として厳正に処罰します。速やかに教室へ戻りなさい」
零さんの鋭い一瞥に、生徒たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「時野くんも、手を出せば貴方が不利になります。自重しなさい」
「す、すんません……でも、湊たちが言われっぱなしなのは……」
「陸、ありがとう。でも、大丈夫だから」
俺が陸の肩を叩くと、零さんはため息をつき、俺と奏羽に向き直った。
「……会長。風森さん。状況は最悪です。あの書き込みのせいで、一部の保護者からも学校へ問い合わせが来ているようです。……生徒会長の品格が問われる事態となれば、凪瀬夫人の耳にも確実に入るでしょう」
「……」
奏羽が、顔を蒼白にして俯いた。
凪瀬夫人がこの噂を知れば、「学業に支障をきたし、風紀を乱している」として、問答無用で同棲を解消され、奏羽は海外へ送られる可能性が高い。
「……冴木の仕業ですか?」
俺が尋ねると、零さんは眼鏡を押し上げた。
「IPアドレスの偽装が巧妙で、特定はできていません。ですが、タイミング的に彼が関与している可能性は極めて高い。……彼は、自分の手を汚さずに、周囲の環境を使って会長の精神を削りにきたのです」
「……卑怯な真似を」
「それが彼の戦い方です。……会長、今日は早退しますか? この状況で授業を受けるのは、貴女にとって過度のストレスになる」
零さんの気遣いに、奏羽はゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、恐怖ではなく、かつてないほどの強い光が宿っていた。
「……ううん。早退しない」
「会長?」
「ここで逃げたら、書き込みを認めたことになっちゃう。……わたしは、生徒会長だもん。堂々としてる」
奏羽はそう言い切ると、俺の方を振り向き、今度は袖口ではなく、俺の「右手」をしっかりと握りしめた。
恋人繋ぎ。
全校生徒が遠巻きに見ている前で、彼女は一切の迷いなく、俺と手を繋いだのだ。
「……奏羽、お前」
「湊くん、行こ。……わたし、もう『完璧な仮面』なんていらない。湊くんが隣にいてくれるなら、どんな噂だって怖くないから」
彼女の力強い言葉と、繋いだ手から伝わる確かな温もり。
俺は、自分が彼女を守らなければと焦っていたことが恥ずかしくなった。
彼女はもう、不眠症に怯えていたあの頃の弱いお姫様ではない。俺の隣で、誰よりも気高く、強い女王へと成長していたのだ。
「……ああ。行こう」
俺は彼女の手を強く握り返し、前を向いた。
周囲のざわめきなど、もう耳に入らない。
俺たちの最後の戦い——冴木との決着、そして凪瀬夫人への証明に向けて、俺と奏羽は、堂々と胸を張って嵐の中心へと歩き出した。




