第85話:冬の図書室と、盤外の宣戦布告
冴木洵からの宣戦布告を受けたその日の放課後。
俺と奏羽は、足早に旧校舎の図書室へと向かった。
期末テストまであと二週間。中間テストの時のように、一条副会長(零さん)の地獄のスパルタ補習が再開されるはずだ。
「失礼します……」
図書室の奥の特等席へ向かうと、そこにはすでにノートパソコンを広げ、山のような参考書を積んだ零さんが待機していた。
「遅いですよ、二人とも。……冴木からの挑戦状は、当然私の耳にも入っています。今日から期末テストまでの二週間、貴方たちの放課後は全て私が管理します」
零さんの眼鏡が、冷たい冬の陽光を反射してキラリと光った。
「風森さん。貴方は前回、まぐれとはいえ十位に食い込みました。ですが、今回の期末テストは範囲が広く、各教科の応用問題の比重が上がります。……今のままでは、良くて三十位、最悪の場合は五十位以下まで転落するでしょう」
「ご、五十位……」
俺の顔が引き攣る。
五十位になれば、凪瀬夫人との「学業最優先」という条件は間違いなく破綻し、俺と奏羽の関係は終わりを迎える。
「そして会長」
零さんの視線が、奏羽へと向けられた。
「冴木は中間テスト以降、さらに学習時間を増やし、特進クラスの連中と模擬テストの点数を競い合っています。……彼は、貴女をトップから引きずり下ろすためだけに、全ての時間を捧げている。……油断すれば、足元をすくわれますよ」
「……わかってる。わたし、絶対に負けないもん」
奏羽は、俺の制服の袖口をぎゅっと握りしめながら、力強く頷いた。
その瞳には、以前のようなプレッシャーに怯える色はなく、俺と一緒に戦うという覚悟の光が宿っていた。
「結構。……では、早速数学の過去問から始めます。制限時間は五十分です」
零さんの合図と共に、俺たちの地獄の冬期講習が幕を開けた。
* * *
カリカリ、と右手に持ったシャーペンを走らせる音だけが静かな図書室に響く。
暖房が効いているはずなのに、問題の難易度と零さんのプレッシャーで、背中には冷たい汗が流れていた。
(……くそっ、この公式、どうやって使うんだっけ……)
俺が頭を抱えてペンを止めていると、左隣の席から、そっと温かいものが伝わってきた。
奏羽が自分の問題を解きながら、俺の左腕に自分の右肩をピタリと密着させ、ほんの少しだけ体重を預けてきたのだ。
「……っ」
俺は驚いて彼女の顔を見たが、奏羽はシャーペンを動かす視線をノートに落としたまま、「大丈夫、落ち着いて」とでも言うように、俺の腕にさらにギュッと身を寄せてきた。
その無防備な甘えと、密着した肩から伝わる彼女の規則正しい呼吸のリズム。
(……奏羽)
俺は大きく深呼吸をし、彼女の体温を力に変えて、再び問題用紙へと向き直った。
不思議なことに、焦りで真っ白になりかけていた頭の中に、先ほどまで思い出せなかった公式がスッと浮かび上がってきた。
「……はい、そこまで」
五十分後。
零さんの冷たい声で、俺たちはペンを置いた。
「採点します。……風森さん、後半の応用問題は白紙ですか」
「すみません、時間が足りなくて……」
俺が肩を落としていると、零さんは「ふむ」と小さく鼻を鳴らした。
「……ですが、前半の基礎問題と、中盤の発展問題はほぼノーミスですね。……途中、変なタイミングで深呼吸をしたかと思えば、急にペースが上がりましたが。……何か、特別な『お守り』でも発動したのですか?」
零さんの鋭い視線が、俺と奏羽の「密着したままの肩」へと向けられた。
「ひゃっ……!?」
奏羽が慌てて身体を離し、顔を真っ赤にして俯いた。
「れ、零さん……これはその、集中力を高めるための……」
「言い訳は不要です。……ですが、それで結果が出るのであれば、私は何も言いません」
零さんは呆れたようにため息をつきながらも、どこか満足げな顔で俺の答案用紙を返却してくれた。
しかし、すぐに眼鏡の奥の瞳を細め、厳しい声で釘を刺した。
「ですが、風森さん。そして会長。……本番のテスト中に、そのように身体を密着させることはできません。……互いの存在に依存しすぎるのは、一人で戦う本番での思わぬ脆さに繋がります。甘えはほどほどにしておきなさい」
「……はい。肝に銘じます」
俺が深く頷くと、奏羽も「ごめんなさい、気をつけます」と小さく肩をすくめた。
だが、そんな俺たちの反省の時間を引き裂くように、図書室の入り口から、バタバタと慌ただしい足音が聞こえてきた。
「……風森くんっ! 会長! 大変!」
息を切らして駆け込んできたのは、生徒会書記の逢坂 結衣だった。
彼女の顔は蒼白で、手に持ったスマホを俺たちに向けた。
「結衣ちゃん、どうしたの……?」
「さっき、学内の裏掲示板サイトに……変な書き込みがされてるの!」
「書き込み……?」
俺が嫌な予感を抱えながら結衣のスマホを覗き込むと、そこには、俺たちにとって最悪の言葉が並んでいた。
『生徒会長・凪瀬奏羽は、一般クラスの男子生徒と同棲している』
『親公認というのは嘘。親が海外にいるのをいいことに、男の家に転がり込んでいるだけ』
『生徒会長としての品格に欠ける。彼女にトップの資格はない』
「……なっ」
俺は絶句した。
事実と嘘が巧妙に混ざり合った、悪意に満ちた書き込み。
そして、この書き込みをした人物の目的は一つしかない。
「……冴木」
奏羽の精神を揺さぶり、期末テストで彼女をトップから引きずり下ろすための、冷酷な『精密機械』からの盤外戦術。
冬の図書室の空気が、一瞬にして凍りついた。




