第84話:冬の足音と、お揃いのマフラー
文化祭の代休だった月曜に妹・翠が帰国し、マンションでの奇妙な「三人生活」が始まってから、気がつけば数週間の月日が流れていた。
十一月も下旬に差し掛かると、朝の空気は肌を刺すように冷たくなり、通学路の木々もすっかり冬支度を終えている。
「……お兄ちゃん、お弁当の卵焼き、今日は少し甘めでお願いね」
「はいはい。奏羽、お前の分も甘めでいいか?」
「うんっ! 湊くんの甘い卵焼き、大好き!」
朝のマンションのキッチン。
すっかり秋から冬へと季節が移り変わる中、俺たちの生活は、この「奇妙な三人での同居」が完全に日常として定着していた。
監視役として居座る翠の存在により、奏羽とのイチャイチャには常に「妹の目」というストッパーがかかるようになった。
しかし、奏羽はその制限の中でもめげることなく、むしろ翠がテレビを見ている隙を突いて背中から抱きついてきたり、夜の寝かしつけ(よしよしとトントン)を「妹の特権」に対抗して毎晩要求してきたりと、彼女なりの甘え方を確立しつつあった。
「……はぁ。朝からイチャイチャ見せられて、私の目と胃袋が重いわ」
制服に着替えた翠が、ダイニングテーブルで呆れたように息を吐く。彼女は日本での受験勉強の傍ら、すっかりこの家での生活を満喫している。
「文句があるなら実家に帰れ」
「やだね。お母さんから『奏羽さんの様子をしっかり見張るように』って頼まれてるんだから」
そんな軽口を叩き合いながら朝食を済ませ、俺たちはそれぞれの場所へと向かう準備をする。
* * *
「……湊くん、準備いい?」
玄関先で、奏羽は少しだけ緊張した面持ちで俺を見上げていた。
彼女の首元には、数日前に「文化祭の買い出しの時に見つけたの」とプレゼントしてくれたアイボリーのマフラー。そして俺の首元には、お揃いのネイビーのマフラー。
今日からこれを巻いて登校するということは、凪瀬夫人から「仮採用」をもらった俺たちの関係を、さらに一歩進めて学園中に示すことになる。
「ああ。……似合ってるぞ、奏羽」
「えへへ……湊くんも。すごく、かっこいい」
奏羽は嬉しそうに微笑むと、当然のように俺の腕にギュッとしがみついてきた。
「……ちょっと二人とも。朝から当てられすぎて、こっちの目が痛いんだけど」
背後から、翠が呆れたように顔を出した。
彼女は今日も友達と会う約束があるらしく、少し大人びた冬服に身を包んでいる。
「翠、お前は今日も出かけるのか?」
「友達と図書館で勉強。一応、私も受験生だしね。……お兄ちゃんたちこそ、そのマフラーで学校行くなら、相当の覚悟が必要だと思うよ?」
「……分かってるさ」
俺たちは翠に見送られ、マンションを後にした。
* * *
学園の正門をくぐると、予想通り周囲の視線が一斉に俺たちへと注がれた。
文化祭の後夜祭で二人きりで花火を見ていたという噂は、数週間経った今でも尾ひれがついて語り継がれている。
「おい、見ろよ。会長と風森……あのマフラー、絶対お揃いだろ」
「マジか……。中間テストで認められたからって、もう隠す気ゼロかよ」
ヒソヒソという囁き声が聞こえるが、中間テストで「十位以内」を勝ち取った今の俺に、以前のような引け目はなかった。
奏羽もまた、俺の腕を離すことなく、凛とした表情で前を見据えて歩いている。
しかし、校舎の入り口——。
昇降口で靴を履き替えようとしたその時、背筋が凍るような冷たい気配を感じた。
「——おはようございます、凪瀬会長。相変わらず、浮ついているようですね」
振り返ると、そこには眼鏡の奥の瞳をナイフのように鋭く光らせた冴木 洵が立っていた。
彼の視線は、俺たちの首元のお揃いのマフラーを嫌悪感を露わにして一瞥した後、真っ直ぐに奏羽へと向けられた。
「冴木くん……おはよう」
「中間の『一点差』。……あれから毎日、一分一秒たりとも、あの屈辱を忘れたことはありませんよ。貴女が凡人と戯れている間も、私はただ、次の勝利だけを計算し続けてきました」
冴木の声は、晩秋の朝の空気よりもさらに低く、冷たかった。
「期末テストまで、あと二週間。……次こそは、貴女からその地位を、そして誇りを奪い取ります。……『愛の力』などという非論理的な幻想が、研ぎ澄まされた知性の前にいかに無力か、証明して差し上げましょう」
冴木はそれだけ言い残すと、俺には一言の言葉もかけず、風を切って廊下の奥へと消えていった。
「……相変わらず、怖い人だね」
奏羽が、俺の腕を掴む手にギュッと力を込めた。
「ああ。……でも、今回は俺もいるからな。一人で戦わせたりしない」
俺がそう告げると、奏羽は「うんっ」と力強く頷いた。
凪瀬夫人との約束は、あくまで「学業を最優先すること」。
もし期末テストで結果を出せなければ、今日までの平穏は砂上の楼閣となって消えてしまう。
「風森さん。会長。……そこで何を突っ立っているのですか。一時間目が始まりますよ」
階段の上から、零さんの冷静な声が降ってきた。
彼女は生徒会の腕章を直し、いつも以上に表情を引き締めていた。
「零さん! 今行きます!」
お揃いのマフラーの温もりを力に変えて、俺たちは再び、それぞれの教室へと向かった。
期末テスト、冴木の執念、そして凪瀬夫人との約束。
俺たちの冬の戦いは、かつてない激しさを予感させながら、静かに幕を開けたのだった。




