第83話:初めての「お姉ちゃん」と、妹の監視網
翠が客間に荷物を運び込んでから数時間。
文化祭の振替休日の午後、リビングには奇妙な緊張感が漂っていた。
「……ねえ、お兄ちゃん」
「なんだよ」
「二人とも、なんでそんなに私を警戒してるの? 別に取って食ったりしないよ」
ソファでくつろぎながらスマホをいじっている翠が、呆れたようにため息をついた。
俺と奏羽は、ダイニングテーブルで並んで参考書を開いている。翠の手前、「イチャイチャ同棲生活」の証拠を掴まれないように、必死に勉強しているフリ(実際に期末テストも近いが)をしていた。
「……別に警戒なんてしてない。ただ、お前が突然帰ってきたからペースが狂ってるだけだ」
「ふーん。奏羽さんは? さっきからずっと黙ってるけど」
翠の視線が奏羽に向くと、奏羽はビクッと肩を震わせた。
「えっ……あ、あのね。わたしは、その……さっき『お姉ちゃん』って呼ばれたのが、初めてだったから……少し、びっくりしてて……」
奏羽は、モジモジと参考書の端を握りしめながら、恥ずかしそうに頬を染めた。
翠が客間に入る際、からかうように言った「お姉ちゃん、よろしくね!」という一言。
一人っ子の奏羽にとって、突然現れた「年下の妹」という存在は未知の領域であり、同時に「彼氏の家族に認められた(?)」という事実が、たまらなく嬉しかったのだろう。
「……そっか。奏羽さん、一人っ子だもんね」
翠は少しだけ意地悪な笑みを引っ込め、柔らかい表情になった。
「私、ずっとお姉ちゃん欲しかったんだよね。お兄ちゃんみたいに、ただ甘やかしてくるだけの地味な図書委員じゃなくて、奏羽さんみたいに綺麗で、可愛くて、ちょっと隙があるお姉ちゃん。……だから、さっきのは冗談半分だけど、本音も半分入ってるよ」
「翠ちゃん……」
「でもさ」
翠はソファから立ち上がり、俺たちのテーブルの方へと歩いてきた。
「ねえ、奏羽さん。お兄ちゃんのどこが良かったの? 昔から優しすぎるところだけが取り柄だけど、それ以外は本当に普通だよ?」
「み、翠ちゃん……! あのね、湊くんは……」
奏羽は俺の顔をチラリと見てから、少しだけ照れくさそうに微笑んだ。
「……普通だから、良かったの。……周りの人は、わたしを『生徒会長』とか『凪瀬の娘』としてしか見てくれなかったけど。湊くんは、最初からずっと……ただの『奏羽』として、特別扱いせずに接してくれたから」
奏羽の真っ直ぐな言葉に、翠は少しだけ目を見張った。
「……そっか。お兄ちゃん、やるじゃん」
翠は俺の肩をポンと叩き、満足そうに頷いた。
「とりあえず、奏羽さんがお兄ちゃんに騙されてるわけじゃないってことは分かった。……でも、油断は禁物だよ? お母さんからの報告義務は保留にしてるだけだからね。……もしお兄ちゃんが、期末テストで手を抜いたり、奏羽さんを泣かせたりしたら……」
翠は、両手で首を切るジェスチャーをした。
「……わかってるよ。期末テストも絶対に結果を出すし、奏羽のことは一生大事にする」
俺がはっきりと言い切ると、奏羽は「湊くん……」と潤んだ瞳で俺を見つめ、テーブルの下で俺の手に自分の指を絡ませてきた。
「……はいはい、ごちそうさま。じゃあ、私はちょっと外の空気吸ってくる。……お兄ちゃんたち、私がいない間にイチャイチャしすぎないようにね!」
翠はそう言い残し、コートを羽織って玄関へと向かっていった。
「……嵐のような奴だな、本当に」
玄関のドアが閉まる音を聞き、俺は深くため息をついた。
「……でも、翠ちゃん、すごくいい子だね」
奏羽は、テーブルの下で俺の手を握ったまま、ふわりと微笑んだ。
「わたし、翠ちゃんのこと、本当の妹みたいに思えてきちゃった。……湊くんの家族に、少しだけ近づけた気がして……嬉しい」
「……そうか。ならよかった」
俺が彼女の頭をそっと撫でると、奏羽は「えへへ」と幸せそうに目を細め、俺の肩にこてんと頭を預けてきた。
「……ねえ、湊くん。翠ちゃん、出かけちゃったね」
「ああ。……でも、いつ帰ってくるかわからないぞ」
「だから……今のうちに」
奏羽は上目遣いで俺を見上げ、俺の唇にチュッと、小鳥が啄むような軽いキスを落とした。
「……充電。翠ちゃんがいると、なかなか甘えられないから」
「……お前、本当に小悪魔になったな」
「湊くん限定だもん」
妹という最強の監視者が現れても、俺たちの甘い同棲生活は、少しの隙を縫ってさらに深みを増していくのだった。




