第80話:風呂上がりのベッドと、お姫様の「ぎゅー」
俺のマンションの寝室。
普段は俺が一人で使っているはずのこの部屋に、今は奏羽が入り込んでいる。
「……はぁ。お前、本当に俺のベッドで寝るつもりか?」
俺が呆れ半分で尋ねると、奏羽は俺の大きめパーカーを羽織ったまま、すでに俺のベッドの真ん中に陣取り、布団を胸元まで引き上げていた。
「だって、湊くんの匂いが一番する場所だもん。……それに、今日は特別に甘やかしてくれるって約束したでしょ?」
上目遣いで、とびきり甘いおねだり。
間接照明の薄明かりの中、俺のベッドに横たわる絶世の美少女。
この状況で理性を保てという方が、どう考えても無理難題だ。
「……わかったよ。でも、俺は客間の方で寝るから……」
「やだ」
俺が背を向けようとした瞬間、奏羽が布団から勢いよく身を乗り出し、俺のパジャマの袖をぎゅっと強く握りしめた。
「……湊くんがいないと、わたし、文化祭の興奮で目が冴えちゃって……逆にまた眠れなくなっちゃうかもしれない。……湊くんの声と、体温がないとダメなの」
それは、不眠症という彼女の切実な弱音であり、同時に俺への最大限の甘えだった。
袖を掴むその小さな手は、微かに震えている。
「……はぁ。わかったよ、負けだ」
俺は深くため息をつき、ベッドの空いているスペース——彼女のすぐ隣に腰を下ろした。
「やったぁ……!」
奏羽はパァッと顔を輝かせ、俺が横になるや否や、すかさず俺の腕の中にすっぽりと潜り込んできた。
「おい奏羽、近いぞ。……風邪引くからちゃんと布団かぶれ」
「湊くんの体温があるから、寒くないもん。……ねえ、湊くん」
奏羽は俺の胸元に顔を押し付け、俺のパジャマのボタンの辺りを指先でくるくると弄り始めた。
そして、耳元で甘ったるい声を出す。
「……ぎゅーって、して?」
「はっ!?」
「今日、お化け屋敷の階段のところでやってくれたみたいに。……わたし、あの時の湊くんの『よしよし』と『ぎゅー』が、すごく安心したの。……だから、今日も」
俺は顔から火が出るかと思いながら、視線を天井に逃した。
「……さすがに、ベッドの中でそれは……俺の理性が……っ」
「湊くんなら大丈夫だよ。わたし、湊くんのこと信じてるもん」
「俺が俺を信じられないんだよ!」
俺の悲痛な叫びも虚しく、奏羽はさらに俺の身体に密着し、俺の腕を自分の背中へと誘導した。
「……ほら、はやく」
彼女の柔らかな感触と、シャンプーの甘い匂いがダイレクトに伝わってくる。
俺は観念し、彼女の細い背中にそっと腕を回した。
「……んぅ……っ」
俺が彼女の背中を、一定のリズムで「トントン」と優しく叩き始めると、奏羽の身体からスッと力が抜けていくのがわかった。
彼女は俺の首に腕を回し、完全に俺に体重を預けてくる。
「……よしよし。奏羽はえらいな。文化祭、二日間とも本当によく頑張った。……俺がずっと守ってやるから、安心して眠れ」
俺は、かつて妹をあやしていた時のように、低く穏やかな声で耳元に囁いた。
「……えへへ、湊くん、お兄ちゃんみたい。……すっごく、あったかい……」
奏羽の呼吸が、少しずつ深く、規則正しいものへと変わっていく。
俺の胸に顔を埋めたまま、彼女は幸せそうな寝息を立て始めた。
(……はぁ。本当に、甘えん坊なお姫様だ)
俺は彼女のサラサラとした黒髪をそっと撫でながら、自分の心臓が早鐘のように鳴っているのを必死に落ち着かせた。
彼女の不眠症を癒すための「ぎゅー」と「よしよし」。
だが、それは同時に、俺の忍耐力を極限まで試す、甘すぎる拷問でもあった。
秋の夜風が窓を揺らす中、俺は腕の中の温もりを絶対に離さないと誓いながら、長い夜を静かに過ごした。
……この甘い休日が、翌朝の「妹の襲来」によって粉々に打ち砕かれることなど、今の俺たちには知る由もなかった。




