第73話:お化け屋敷の巡回と、暗闇の役得
「……いよいよ、明日が文化祭本番だな」
「おう。俺たちのお化け屋敷、絶対に学園一の悲鳴を上げさせてやるぜ!」
文化祭前日の放課後。
旧校舎の教室は、段ボールや黒いビニールシートで完全に日光が遮断され、不気味なBGMが流れる立派な「お化け屋敷」へと変貌を遂げていた。
俺たち大道具・美術班の作業も完了し、あとは明日の本番を待つのみだ。
「よし、じゃあ最後の安全確認と、脅かし役のリハーサルを兼ねて、一回通しで回ってみようぜ」
クラス委員長の声に、俺や陸をはじめとするクラスメイトたちが頷いた。
その時だった。
「——失礼します。生徒会からの、最終巡回チェックです」
教室の入り口から、凛とした声が響いた。
黒いビニールシートをめくって入ってきたのは、腕章をつけた生徒会長の凪瀬奏羽と、その後ろに控える副会長の一条零、そして書記の逢坂結衣だった。
「おおっ、会長直々のチェックか!」
「よろしくお願いしまーす!」
クラスの連中が色めき立つ中、奏羽は「お疲れ様です」と完璧な生徒会長の笑顔を振りまきながら、俺の姿を探すように視線を彷徨わせた。
そして、部屋の隅で提灯の小道具を調整していた俺と目が合うと、パァッと花が綻ぶような、それはそれは甘い笑顔を見せた。
「……湊くん」
「お疲れ、奏羽。巡回、ご苦労様」
俺が小さく手を振ると、奏羽は小走りで俺の元へやってきた。
「あのね、湊くん。このお化け屋敷、すごく本格的だね。……外から見てても、ちょっと怖いくらい」
「まぁ、陸たちが気合入れて作ったからな。安全面は俺がしっかり確認したから大丈夫だ」
俺が胸を張って答えると、奏羽は少しだけモジモジとしながら、俺の制服の袖口をぎゅっと握りしめた。
「……じゃあ、今からわたしがチェックのために中に入るんだけど。……湊くん、一緒に回ってくれる?」
「えっ?」
彼女の潤んだ上目遣い。
あの日、生徒会室でこっそり交わした「秘密の抜け駆けデート」の約束だ。
だが、今のこの状況は……。
「——会長。私的な感情で業務を滞らせないでください」
背後から、氷のように冷たい零の声が降ってきた。
「れ、零……! 違うの、これは安全確認のために、大道具責任者の湊くんに同行してもらおうと……!」
「言い訳は不要です。……ですが、確かに内部の構造を把握している責任者の同行は合理的ですね。……風森さん、会長の案内をお願いします」
「……え?」
零の予想外の許可に、俺と奏羽は顔を見合わせた。
「ただし、私たちは入り口で待機しています。持ち時間は五分。……暗闇に乗じて『余計な安全確認』などしないように」
零は眼鏡を押し上げ、冷たく言い放つと、結衣と共に教室の入り口の方へ下がっていった。
結衣は「会長、楽しんできなよー」と、親指を立ててウィンクをしている。
「……零が、許してくれた」
「あぁ。……じゃあ、行くか。俺が案内するよ」
俺は奏羽の手を取り、お化け屋敷の入り口である、黒いカーテンの奥へと足を踏み入れた。
* * *
「ひゃっ……!」
一歩中に入ると、そこは完全な暗闇だった。
足元を照らす微かな赤い照明と、不気味な呻き声のBGMだけが響いている。
奏羽は俺の腕にギュッとしがみつき、ほとんど俺に隠れるようにして歩き始めた。
「大丈夫だ、奏羽。これは俺が作った発泡スチロールの壁だし、あそこの血文字はただの赤い絵の具だ」
「わ、わかってるけど……でも、暗いし……っ」
彼女の震える身体から、シャンプーの甘い香りが漂ってくる。
狭い通路を歩くため、二人の距離はゼロに等しい。
「……うわぁっ!!」
通路の曲がり角で、突然、隠れていた陸(血まみれの包帯男役)が飛び出してきた。
「きゃああああっ!!」
奏羽が短い悲鳴を上げ、俺の胸に勢いよく飛び込んできた。
俺はとっさに彼女の肩を抱き寄せ、陸を睨みつけた。
「おい陸! やりすぎだ、本気で怖がってるだろ」
「わりぃわりぃ! でも、会長のリアクション最高だな! これは明日本番も期待できるぜ!」
陸がニシシと笑って奥へ引っ込むと、奏羽は俺の胸に顔を埋めたまま、小刻みに震えていた。
「……湊くん、こわい……」
「ごめんな。もう脅かし役はいないはずだから、あと少しだ」
俺は彼女の背中を優しく撫でながら、出口へと向かって歩みを進めた。
だが、奏羽は俺の胸から顔を上げず、俺の制服をさらに強く握りしめてきた。
「……ねえ、湊くん」
「ん?」
「……零が、入り口で待ってるから。……五分間は、誰にも見られないんだよね?」
暗闇の中、彼女の声は、恐怖とは違う、甘い熱を帯びていた。
「奏羽……?」
彼女はゆっくりと顔を上げ、俺の首に腕を回してきた。
赤い照明に照らされた彼女の瞳は、潤んでトロンとしていた。
「……暗闇に乗じて、余計なこと……しちゃだめ?」
「お前、零さんに釘刺されたばっかりだろ……」
「湊くんが、わたしを守ってくれた『ご褒美』。……はやく」
彼女の柔らかい唇が、俺の唇に重なった。
お化け屋敷の不気味なBGMの中、俺たちは周囲の目から完全に隔離された暗闇で、深く、甘いキスを交わした。
恐怖で早鐘を打っていたはずの彼女の心臓の音が、今は別の理由で激しく鳴っているのが伝わってくる。
「……んっ……ぁ……」
唇を離すと、奏羽は茹でダコのように顔を真っ赤にして、再び俺の胸に顔を埋めた。
「……充電、完了。これで、明日からの文化祭、頑張れる」
「……お前、本当にここが学校だってこと忘れてないか?」
俺が苦笑いしながら彼女の頭を撫でると、奏羽は「えへへ」と幸せそうに笑った。
完璧な生徒会長の、暗闇での大胆な抜け駆け。
文化祭本番を前にして、俺の理性は、お化け屋敷の恐怖よりも遥かに恐ろしい「彼女の甘すぎる誘惑」によって、完全に削り取られていたのだった。




