第69話:最後の審判と、トロトロな反逆者
重厚なオーク材の扉を開け、俺と奏羽は広すぎるリビングへと足を踏み入れた。
奥の革張りのソファには、一分の隙もない着物姿の凪瀬夫人が腰掛けていた。手元には、おそらく学校から送られてきたばかりの成績表のデータが置かれている。
「失礼いたします」
俺が深く頭を下げると、夫人はゆっくりと顔を上げ、俺たちの繋がれた手——正確には、俺の袖口を死に物狂いで握りしめている奏羽の手を、冷ややかに一瞥した。
「……結果は、見ました」
夫人の声は、相変わらず冷房の効いた部屋よりも冷たかった。
俺はゴクリと唾を飲み込み、背筋を伸ばす。
「奏羽、貴女は一位。……冴木くんの猛追を退け、見事にトップの座を奪還しましたね。よくやりました」
「……はい、お母様」
奏羽の声は少し震えていたが、以前のように「完璧な令嬢」を演じようとする強張りはなかった。
「そして、風森さん」
「はいっ」
「……貴方は、第十位でしたね。前回十一位からの、たった一つのランクアップ。……ですが、その『一』の重みは、特進Sクラスの壁を破ったという事実において、評価に値します」
夫人は手元のタブレットを置き、ふうっと小さく息を吐いた。
「……一条さんから、貴方たちの夏休みの学習記録も提出されています。……まさか、我が娘が他人のためにそこまで献身的にノートを作り、貴方が睡眠時間を削ってまでそれに食らいつくとは。……若さゆえの熱病か、それとも……」
夫人の鋭い視線が、俺を射抜いた。
その瞳の奥には、俺という得体の知れない存在に対する警戒と、娘の変貌に対する戸惑いが混じり合っているように見えた。
「……約束は、果たしました」
俺は、一歩前に出た。
隣で奏羽が「湊くん……」と不安そうに俺の袖を引くが、俺は彼女の手を優しく握り返し、夫人を真っ直ぐに見据えた。
「奏羽をトップに留め、俺自身も十位以内に入りました。……どうか、彼女を海外へ転校させるのは取り消してください。そして、俺たちの交際を……俺が彼女の隣にいることを、認めてください」
俺の直訴に、リビングは水を打ったように静まり返った。
夫人はしばらく無言で俺を見つめ、やがて、ゆっくりと口を開いた。
「……勘違いしないでください、風森さん。私が提示した条件をクリアしたからといって、貴方を凪瀬家の娘の伴侶として手放しで歓迎するわけではありません」
「……はい」
「貴方はあくまで一般家庭の出であり、将来、奏羽が背負うべき『責務』を共に分かち合える確証はない。……ですが」
夫人は、視線を奏羽へと移した。
「奏羽。貴女は本当に、この風森さんでなければダメなのですか? 貴女の才能と美貌があれば、将来もっと相応しい……」
「お母様」
奏羽が、俺の隣から一歩前に進み出た。
その顔には、かつて母親の顔色を窺っていた「氷の令嬢」の面影はない。
「わたしは、もうお母様の期待する『完璧な娘』には戻れません。……だって、わたしは湊くんの前だと、何もできないポンコツになっちゃうから」
「なっ……奏羽、貴女、何を……」
夫人が驚愕に目を見開く。
「料理をすればキッチンを焦がすし、雷が鳴れば泣きついて離れられないし、湊くんの声がないと、夜も怖くて眠れない。……わたし、湊くんに甘やかされないと、生きていけない身体になっちゃったの」
「か、奏羽! お前、お母さんの前でなんてことを……!」
俺が顔を真っ赤にして制止しようとするが、奏羽は全く止まらない。
むしろ、さらに俺の腕にギュッとしがみつき、母親に向かって「トロトロに蕩けた顔」をこれでもかと見せつけた。
「だからね、お母様。わたしを海外に行かせたって無駄だよ。……湊くんがいないと、わたしは一晩でダメになっちゃう。お母様がわたしを『完璧』にしようとすればするほど、わたしは湊くんのところに逃げ込むから」
それは、母親に対する完全な反逆であり、俺に対する究極の愛情表現だった。
自分の弱さも、ポンコツ具合も、全てをさらけ出し、「だから湊くんが必要なんだ」と堂々と宣言する彼女の姿は、ある意味でどんなスピーチよりも雄弁だった。
「……っ、この子は……」
夫人はこめかみを押さえ、深いため息を吐き出した。
どうやら、前回俺が仕掛けた「完璧な娘の幻想を壊す作戦」のダメージが、完全にトドメを刺したらしい。
「……もう結構です。頭が痛くなってきました」
夫人は疲れ切ったようにソファに背を預けた。
「……条件はクリアしたのですから、約束は守ります。海外転校の話は白紙にしましょう」
「本当ですか……!」
俺が歓喜の声を上げると、夫人は冷たい声で釘を刺した。
「ただし。交際を認めるのは、あくまで『学業を最優先し、互いに高め合うこと』が前提です。もし成績が落ちたり、風紀を乱すような真似をすれば、即刻引き離しますからね」
「はいっ! 肝に銘じます!」
「……それから、風森さん」
夫人の視線が、再び俺を鋭く捉えた。
「娘がこれほどまでに貴方に依存している以上、貴方には彼女の『ポンコツ具合』を含めて、一生面倒を見る覚悟が求められます。……途中で投げ出すような真似は、絶対に許しませんよ」
それは、冷徹な凪瀬夫人から出た、母親としての不器用な「娘を頼む」という言葉だった。
「……はい。俺の特等席は、誰にも譲りません。一生、俺が彼女を甘やかします」
俺がはっきりと宣言すると、夫人は「……好きになさい」と呆れたように顔を背けた。
「やったぁぁぁっ! 湊くん、湊くん……っ!」
奏羽は歓喜の声を上げ、周囲の目(母親の目)も気にせずに俺の首に腕を回して抱きついてきた。
俺も、全てが終わった安堵から、彼女の細い腰を力強く抱きしめ返した。
地獄の夏期講習と、高すぎる二つの条件。
俺たちはついに、最大のラスボスである凪瀬夫人を攻略し、公式な「恋人」としての権利を勝ち取ったのだ。
俺の胸で幸せそうに笑う彼女の体温を感じながら、俺はこれから始まるであろう、甘くて騒がしい「公認の同棲生活(?)」に、胸を高鳴らせていた。




