第68話:副会長の過去と、ラスボス邸への道程
放課後。
俺と奏羽、そして一条副会長(零)の三人は、学園から少し離れた高級住宅街を歩いていた。
目的の場所は、もちろん凪瀬家の本邸だ。
「……湊くん。手が、すごく冷たいよ」
「そりゃ緊張もするさ。あの凪瀬夫人に『条件クリアしました』って直談判しに行くんだからな」
奏羽が心配そうに俺の右手を両手で包み込んでくれる。
彼女の手も微かに震えているが、その瞳には夏休み前のような「逃げ出したい」という怯えはなかった。
俺たちの少し前を、零が相変わらずのピンと伸びた背筋で歩いている。
ふと、俺はずっと気になっていたことを口にした。
「……一条副会長」
「何ですか、風森さん。今から言い訳を考えても遅いですよ」
「いや、そうじゃなくて。……零さんは、どうして凪瀬夫人からあんなに信頼されてるんですか?」
俺の問いかけに、零の足がピタリと止まった。
彼女は振り返らず、ただ眼鏡を中指で押し上げた。
「……不思議に思うのも無理はありませんね。私がただの生徒会副会長なら、他人の家庭の事情や、娘の交際相手の監視など、首を突っ込む義理はありませんから」
零はゆっくりと振り返り、俺と奏羽を交互に見つめた。
その瞳には、いつもの冷徹さの奥に、ほんの少しだけ懐かしむような色が浮かんでいた。
「私の実家である一条家は、代々、凪瀬家の系列企業で重役を務める家系です。……私と会長は、家同士の繋がりで、物心ついた頃からのお茶飲み友達……いえ、腐れ縁のようなものでした」
「零……」
奏羽が、少しだけ申し訳なさそうに零の名前を呼んだ。
「幼い頃の会長は、今のような『完璧な氷の令嬢』ではありませんでした。よく泣き、よく転び、私の後ろをついて回るだけの、不器用な泣き虫でした」
零の口から語られる奏羽の過去に、俺は驚いて隣の彼女を見た。
奏羽は「もー、零ったら昔の話しないでよぉ……」と顔を真っ赤にして俯いている。
「……ですが、凪瀬家という名門の重圧は、徐々に彼女を蝕んでいった。夫人の『完璧であれ』という期待に応えるため、彼女は必死に感情を殺し、氷の仮面を被るようになった。……私は、それが彼女のためになると信じて、彼女の『右腕』として、全てのノイズを排除する役目を買って出たのです」
零の声が、少しだけ沈んだ。
「……でも、それは間違っていた。私が彼女を『完璧』の型に押し込めようとすればするほど、彼女は夜の孤独に怯え、不眠症に苦しむようになった。……私は、親友を壊しかけていたのです」
そこまで語ると、零は再び歩き出した。
俺と奏羽も、無言でその背中を追う。
「だから、風森さん。……貴方が現れ、彼女をあの息苦しい仮面から救い出してくれた時、私は敗北を悟ると同時に、安堵もしていたのです」
「一条副会長……」
「夫人が私に監視を命じたのは、私が凪瀬家の人間ではないにも関わらず、奏羽のことを誰よりも『正しく管理できる』と信用しているからです。……ですが、私の本当の目的は、貴方たちが夫人を納得させるだけの『結果』を出すよう、導くことでした」
零は、立ち止まり、目の前にそびえ立つ重厚な鉄の門を見上げた。
凪瀬家だ。
「……さあ、着きましたよ。ここから先は、貴方たち自身の戦いです。私が手助けできるのはここまでです」
「零……ありがとう。わたし、絶対に自分の言葉で、お母様に伝えるから」
奏羽が力強く頷くと、零はフッと短く笑い、俺に向き直った。
「風森さん。十位以内へのランクイン、見事でした。……貴方の執念、確かに見届けましたよ。あとは、その想いを夫人にぶつけるだけです。……もし失敗して会長が海外へ送られるようなことがあれば、私が貴方を地の果てまで追い詰めますからね」
「……はい! 絶対に、奏羽を離しません!」
俺が深く頭を下げると、零は満足そうに頷き、インターホンを押した。
『——はい』
スピーカーから、冷たく澄んだ凪瀬夫人の声が響く。
「一条です。……奥様、お約束通り、お二人をお連れいたしました」
『……入りなさい』
ギィィ、と重々しい音を立てて門が開く。
俺は奏羽の手を強く握り直し、大きく深呼吸をした。
夏休みの全てを懸けた、最後の審判。
俺たちは、ラスボスが待ち構えるリビングへと、覚悟を決めて足を踏み入れた。




