第59話:熱下がりの朝と、氷の副会長のお見舞い
「……ん」
小鳥のさえずりと共に、俺はゆっくりと目を開けた。
昨日まで頭を締め付けていた鈍痛や、身体の節々の軋みは嘘のように消え去っている。深く息を吸い込んでも、喉の熱さは感じなかった。
(……下がったか)
どうやら、一晩で熱は引ききったらしい。
身体を起こそうと身じろぎした瞬間、俺の右腕にずっしりとした重みがあることに気がついた。
「……すぅ、すぅ……湊くん……」
視線を下ろすと、俺のベッドの縁に座り込んだまま、俺の胸元に上半身を預けるようにして、奏羽がスヤスヤと眠っていた。
彼女の両手は、俺のパジャマの胸元をぎゅっと強く握りしめている。
「朝まで、ずっとこうしててあげるから」という言葉通り、彼女は本当に一晩中、俺のそばを離れずに看病してくれていたのだ。
「……ありがとうな、奏羽」
俺は彼女のサラサラとした黒髪をそっと撫でた。
目元には、うっすらとクマができている。不眠症だった彼女が、俺のために徹夜をしてくれたのだ。その献身が、胸の奥をぎゅっと締め付けるほど愛おしかった。
とりあえず、このまま無理な体勢で寝かせておくわけにはいかない。
俺は彼女を起こさないように、そっと自分のパジャマを握る彼女の指を解き、自分の身体をベッドから滑り出させた。
そして、代わりに彼女の身体をベッドの上に横たわらせ、タオルケットを首元まで掛けてやる。
「んぅ……湊くん、だめ……いかないで……」
「大丈夫だ、すぐ戻るから」
寝言で身を捩る彼女の頭をポンポンと叩くと、奏羽は安心したように再び深い寝息を立て始めた。
さて、水分でも取ろうとリビングへ向かった、その時だった。
——ピンポーン。
朝の静寂を破るインターホンの音。
時計を見ると、午前九時ジャスト。この正確無比な訪問者は、一人しかいない。
俺は慌てて玄関へ向かい、ドアを開けた。
「おはようございます、風森さん。……どうやら、熱は下がったようですね。顔色が昨日よりマシです」
そこに立っていたのは、予想通り一条副会長(零)だった。
彼女はいつも抱えている分厚い参考書の代わりに、今日は大きなスーパーのビニール袋を提げていた。
「おはようございます、一条副会長。ご心配をおかけしました。もう平熱です」
「そうでしょうね。あれだけの看病を受けて、治らない方がおかしいというものです」
「えっ?」
「昨日、私が帰る間際、あのポンコツ会長が『湊くんはわたしが絶対に治す!』と息巻いていましたからね。……それで、当の会長はどこですか?」
零が探るようにリビングを見渡すので、俺は苦笑いしながら答えた。
「俺の看病で徹夜しちゃったみたいで……今、俺のベッドで爆睡してます」
「……はぁ」
零は、今日一番の深いため息を吐き出し、こめかみを指で押さえた。
「看病にかこつけて、貴方のベッドを占領しているだけでしょう。……全く、風邪をうつされたらどうするつもりですか。彼女の成績まで落ちたら、それこそ元も子もありませんよ」
「すみません……。でも、彼女のおかげで本当に助かったんです。彼女が本を読んでくれて、すごく安心して眠れたので」
俺がそう言うと、零は目を丸くし、やがて呆れたようにフッと笑った。
「……逆転現象ですか。あの不眠症の会長が、人を寝かしつける側に回るとは。……貴方たちの絆も、なかなか侮れませんね」
零はそう言って、提げていたビニール袋を俺に押し付けた。
中には、スポーツドリンクやゼリー飲料、消化に良さそうなレトルトのうどんなどが大量に入っていた。
「零さん、これは……?」
「病み上がりの貴方に、また変な手料理を振る舞って台所を爆発させられては困りますからね。……今日は特別に、補習は完全休養日とします。栄養を取って、しっかり体力を戻しなさい」
「……ありがとうございます、一条副会長!」
俺が深く頭を下げると、零は「勘違いしないでください。明日からまた三倍の密度でやりますからね」と冷たく言い捨て、踵を返した。
「あ、そうだ。零さん」
「何ですか?」
「奏羽に……無理させてごめんなさい。でも、彼女がすごく強くなってること、零さんにも知ってほしくて」
俺の言葉に、零は歩みを止めず、背中越しにポツリと答えた。
「……知っていますよ。彼女はもう、私の庇護を必要としないくらいに、強くなりました。……貴方の、おかげでね」
それだけ言い残し、氷の副会長はエレベーターへと乗り込んでいった。
不器用で、厳しいけれど、誰よりも奏羽のことを大切に思っている彼女の優しさが、その背中から伝わってきた。
俺はビニール袋を抱え、再び寝室へと戻った。
ベッドの上では、俺の匂いが染み付いた枕を抱きしめ、奏羽が幸せそうに眠っている。
俺は彼女の寝顔を眺めながら、そっとその頬に触れた。
「……ありがとな、奏羽。今度は俺が、お前を甘やかす番だ」
地獄の夏期講習の、思いがけない休息日。
俺は完全復活した身体で、愛しい「お姫様」が目を覚ますのを、静かに待ち続けていた。




